2.迷惑をかけないは迷惑をかけた
俺が生まれたとき、じいちゃんはすでにこの世にいなかった。1人は病気で、1人は落石事故で亡くなったらしい。
父方のばあちゃんは5歳のときに、母方のばあちゃんは8歳のときに亡くなった。
じいちゃんとの思い出はもちろんまったくないし、ばあちゃんとの思い出もほとんどない。記憶の中のばあちゃんの顔や声も朧げだ。
父方のばあちゃんは、同じ敷地内の我が家のすぐ隣に住んでいた。
俺はわりとおばあちゃん子だったと思う。畑仕事をするばあちゃんによくついて回ったり、ばあちゃんと一緒に銭湯に行ったり、ご近所さんとの井戸端会議に一緒に参加したり、覚えているのはそのぐらいだ。
俺が5歳のとき、ばあちゃんは死んだ。
――自殺だった。
自宅のトイレのドアにもたれるようにして、ばあちゃんは動かなくなっていた。ドアノブから首の辺りまでヒモが通っているのが見えたが、それが何を意味しているのか、当時はすぐに理解できなかった。
左に傾く上半身、伸びた手足、色白くなった肌、うつむく寝顔。そのときのばあちゃんの姿は、脳裏にこべりついている。
俺は、ばあちゃんを触った――冷たかった。
状況が理解できなかったが、只事ではないということは感じた。
うちの前に止まる救急車とパトカー、近所の人たちも群がっていた。
俺は、いま自分がどうすればいいのか、どこにいるべきなのか分からない。きっとそんな気持ちで、初めて間近に見る救急車とパトカーを横目にバタバタと走り回るだけだった。
そのとき、俺にはまだ悲しいという感情は芽生えなかった。
母は、両手で顔を覆い泣いていた。声を出しながら泣き崩れた。
母は明るくて、面倒見がいい。それは義理の母に対しても変わらない。母はその日の夕方、作ったおかずをばあちゃんにおすそ分けに行ったとき、動かなくなったばあちゃんを発見した。
俺は、母が泣いている姿を、あんなに泣き崩れる母の姿を見たのは、そのときが最初で最後だ。
葬式が終わり、車に乗って場所を移動し、ある建物の中へ入った。初めて入る建物、葬式のときにはたくさんの人がいたが、そこにはうちの家族と、親戚の人たちしかいなかった。
ばあちゃんが眠っているそれが、扉の中の小さなトンネルへと入っていく。鼻をすする大人、ハンカチで目元を押さえている大人がちらほら見えたが、俺には状況が分からなかった。
別室で時間が経つのを待ってから、ある部屋へと入った。
そこには灰と骨だけになったばあちゃんがいた。いや、もうばあちゃんではない。さっきまで見ていた俺の知っているばあちゃんの姿ではなかった。
ばあちゃんは……俺の知っているばあちゃんは……もうここにはいない――。
そのとき理解した。
俺は、そのとき初めて人が死んでいる姿を見たし“人は死ぬ”ということを実感した。
――人は死ぬと、眠るのだと知った。
――人は死ぬと、色白くなるのだと知った。
――人は死ぬと、冷たくなるのだと知った。
――人は死ぬと、最期は灰と骨だけになるのだと知った。
――人が死ぬと、泣き崩れて悲しむ人がいるのだと知った。
そして人は、自分で死ねるのだと知った。
遺体が発見される前日。
仕事で両親が居なかったので、兄弟3人でばあちゃんの家へ遊びに行った。まだ18時過ぎだったと思うが、ばあちゃんの家は真っ暗だった。そんな時間に部屋の電気が消えていることは今までなかったから、不思議に思ったのを覚えている。兄弟3人、玄関先で「ばあちゃーん」と呼びかける。すると明かりがつき、ばあちゃんは俺たちを迎え入れた。
兄弟3人は、ばあちゃんと遊ぶわけでもなく、おのおの勝手に遊んだ。俺と兄はレゴで遊び、姉は絵を描いていた。
翌日の夕方、ばあちゃんは遺体で見つかる――。
――あのとき、電気の消えた真っ暗な部屋で、ばあちゃんは何をしていたのだろう。
――あのとき、元気に遊ぶ孫たちを見て、ばあちゃんは何を思ったのだろう。
ばあちゃんのことについて俺は親に聞いたことはない、思い出させたくないからだ。
「ばあちゃんは何で死んだん?」あるとき姉は聞いた。
そして、母は言った。
“迷惑かけたくなかったんよ”
遺書があったのかどうか分からない。けど、母が言ったことは本当だと思う。当時、ばあちゃんが通院しているのは俺も知っていた。80歳だったし、どこか悪かったのだろう。
“迷惑をかけたくない”
ばあちゃんは、きっとその一心で大きな決断をした。あのときの、孫である我々兄弟3人の存在が、決断を後押ししたのかもしれなかった。
結果的に、ばあちゃんが生きていたら必要であったであろう、入院費用や介護費用など、我が家はそういったことにお金をかけることは無くなった。そのお金で俺たちはすくすく育った。
『死ぬこと=迷惑をかけない』これこそ究極の方法かもしれない。
みんなに迷惑をかけたくなかったばあちゃん。ばあちゃんがそう思う気持ちは分かるし、尊重されるべき考えだ。
大人になってばあちゃんのこと、自殺のことをよく考えるようになった。
テレビで自殺をテーマに話していることが時々ある。「自殺はダメです」「命を大切に」「生きたくても生きられなかった人もいる」「ひとりで悩まないで」そう思うのは当然だ。
もし、ばあちゃんが自殺することを事前に知っていたとしたら、俺はばあちゃんに何て声をかけるだろう。正解は何だ? そもそも正解はあるのか? 正解は誰が決める? 当たり前のありきたりな綺麗事を言ったら変わるのかな。
もし、タイムリープしてあの頃に戻れても、俺はきっとばあちゃんを救えない。
俺は、自分の生き方なんて自分で決めりゃいいと思ってる。死にたかったら勝手に死ねばいいと思ってる。自分の人生の終わり方なんて自分で決めりゃいい――自分だけの人生なら。
大事なのは『悔いなく生きること』と『悔いなく死ぬこと』。
本人とその家族、さらにいえば関わっていた人たち、それぞれが悔いを残さないことが大事だと思う。
もし自殺がダメだとするなら、俺がダメだと思う理由は、自殺は迷惑をかける。
自殺したあなたを目撃した人、自殺したあなたを処理する人、住んでいたあなたの家を処理する人、いろいろな人に迷惑をかける、それも突然に。
何らかのかたちであなたと関わっていた人は「自分がもっとこうしておけば」「自分がああしてしまったから」などと自分を責め、もうどうすることもできない後悔と罪悪感に苛まれるだろう。あなたとの関わりが深ければ深いほど苦しむ。そしてそれは、一生消えない。そんな苦しみは迷惑極まりない。『死ぬこと=迷惑をかけない』そんなものは成立しない。
当時、あなたといちばん近くで関わっていた母
第一発見者になった母
泣き崩れた母
死ぬことで迷惑をかけない選択をした、あなた。あなたは結果的に迷惑をかけたんだ。
それでも、家族を想い、家族のために大きな決断を下したあなたのことを否定することなんてできない。あなたの命と引き換えに、すくすく育ち、いまも生きている者がいる。深い愛情で、決して簡単ではない決断を下したあなたのことを、尊敬しています。
あなたは、それで良かったと思っているかもしれない。『悔いなく死ぬ』ことができたのかもしれない。でもね、残された側の『悔い』そういう気持ちは考えなかったのかな。
少なくとも俺は、もっとばあちゃんとの思い出残したかったよ。
自殺で迷惑をかけるのは、赤の他人でも一緒。その瞬間や遺体を目撃した人の記憶には、その映像がずっと残る。
世の中には繊細な心を持っている人もたくさんいる。その人たちは、そういうことを耳にする度に心が痛み、時には自分に置き換え、不安や悲しみに苛まれるだろう。
勝手に死なれるの迷惑だから、生きてください。
ただ、俺には人の生き方を決める権限も、死に方を決める権限もない。だから、死にたいなら好きにすりゃいい、自分の人生だからね。でも、もしこの話を読んで何か心に引っ掛かるものがあるなら、きっと生きたほうがいいんじゃないかな。焦らないで人生を。
俺は、ばあちゃんの血を強く受け継いでいるのかもしれない。
“人に迷惑をかけない”
俺はそうやって生きている。
きっと俺は死ぬときも、人に迷惑をかけないように、そうやって死んでいくと思う。
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