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マジェンダノ君へ⑤

働きながら学ぶとは、10代の私にとって自由と好奇心の固まりだ。大人と働きお給料を封筒で貰う重みは天下を取ったんじゃないか?位の喜びだ。当時15万足らずのお金を大切に持ち帰り、母親に生活費としてお金を渡していた。
同時に、私は劇団に入っていたのでオーディションを受けるための衣装、ボイストレーニングも自費で回していた。ことごとく落ちていたが、ある外人モデル事務所に声をかけられ、雑誌モデルとある、会社のアナウンサー養成学校に通いながら、田舎の訛り等を強制する訳で次第にたまたま組んだバンドのボーカルとしても活動していた中の、会社倒産事件が勃発したのだ。
本社は港区三田とある国際ビルに構え、品の良いカフェも開いていた。私も数回カフェで紅茶を入れたり運んだりもした。まさか倒産するなんて。。全く突然会社がなくなり誰にも連絡が取れず、伊勢丹グループの上司二人と途方にくれた。すべての厚生保険や諸々空中に浮いたのだ。なす術はなく、家に帰り具合も悪くなり寝込んでしまった。そんなバカな?悪夢の中、徒歩で学校に通いふてくされながら、屋上でタバコをふかす毎日だ。やっちゃんとは、疎遠になりモデルの女の子と仲良くしていたようなので、話すことも少なくなっていた。
ある日、早目に学校に着いたので教室の窓辺から校庭を眺めていると、同じクラスの名前すら良く分からない細身の男子が声をかけてきた。
「早いね、仕事は休みなの?」
グサッと心に来たけど
「会社ね潰れちゃったんだよ」
何故だか、心の声がダダ漏れてしまう。
「えっ?そんなことあるの?」
そりゃあ驚くだろう。
今までの経緯を説明したり、笑い話を少しした。それから、何度か早目に教室で待ち合わせをして授業をさぼりいろんな話を屋上でした。彼は後藤勇二、一つ年下で板金会社の見習いだそうだ。たまにバイクで学校に来ていたので、彼のバイクに股がり学校の回りをバカみたいにぐるぐる回ってもいたが、気持ちも良く気が晴れた。私も、再就職をしてヤル気満々だ。

新宿という街には、沢山の駅がある。
JR新宿
西武新宿
丸の内新宿
有楽町新宿
小田急新宿
京王新宿
田舎者の私は覚えられなかったが、西武新宿駅の側にあるカプセルホテルのフロントの仕事が決まった。新装オープンスタッフで入社し、初めての業種に浮かれている。制服も可愛く前のケーキストリッパーとは違い、フロント業務なのでやることは当たり前に多かった。学校へ向かう通り道では、日焼けサロンシティーサーファーの宣伝アナウンスが流れている。波に乗らないサーファーは新宿に繰り出し日サロで決めているわけだ。
我が母校はオレンジとピンクのマジェンダカラーの夕焼けに照らされ、ぞろぞろと夜間高校の入り口門へ吸い込まれていく。下駄箱あたりで、勇二が「よっ」と右手をおでこあたりで敬礼したので、私も「お疲れ様でした、そんでおはよー」とウィンクをしておどけてみせた。私にだけ打ち明けてくれた、勇二の秘密は心の中に今も残っている。たまに見せる悲しい瞳の中に、私が映っていたことを忘れない。勇二が5才から15才まで施設に居たことも、一人暮らしで初めて自分だけの空間に感動したことも、女の子を部屋に招待してツナ缶を食べたことも私だけが知っているんだよね。大好きなバイクで天国に旅を今もしているんだから。

私の望む世界を自分なりに表現したいと思います。大体実話でございますのでよろしければ、読んでいただけましたら小躍りしたいと思います。足が不自由になってからより書きたいと思う事が増えてまいりました。私には背中に翼があることを隠せない性分なのです☆