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影法師。

私の父は、私が3歳の頃母と離婚してからというもの会った事も連絡したこともない。私の父方は仙台の山奥で建設会社を営んでいたようで、実家は大きな屋敷のようだ。

母が言うには、通用門がありその二階に父と母は一時住んでいたようだ。
母屋は大きく、何人かの人たちが田舎のしきたりを重んじて暮らしており
人に合わせる事が出来ない母は、お腹の中の私を連れて静岡に帰ったらしく
父方から、母はよく思われていなかったようだ。

父にも問題が多く、麻雀きちがいだそうでどうしようもなくて母は離婚したというが真相は知らない。

父方から慰謝料をたくさんもらい、母は今の実家を手に入れることが出来た
私はというと、一人東京で暮らしながら運命と戦っている。

もうとっくに忘れていた父
たまたま、市役所から連絡が入り私は父方の法定相続人で市の遊歩道にしたい土地があり、譲ってほしいと連絡が来たが「はぁ?」という感想だ
52年連絡も取らず、一回だけ私が中学生の時に自宅に警察から電話が入り
たまたま出た私に

「貴方のお父さんがねー駐車違反をして出頭しないんだよ」と電話で聞いて呆れたのを覚えている。駐禁おやじかよ!ろくでなしだな!と思った
当時、義父が居たので私は気を使ってその事を言えずにいたのを覚えている。母と義父の折り合いも悪く、なんと義父も麻雀きちがいだった。

それは、私も覚えている・・・祖母と母の前で土下座していたのを覚えているからで、ろくでなしだな!と人生2回目に男の人を強く軽蔑した。
母は、男を見る目がない大体へんてこりんな人選ぶわけで次の男は赤坂で
英語教師をしているという、カントリースタイルキメキメのウエスタン野郎と私は心で思っていた。ウエスタン魂などなくスタイルだけの人で、夜中英語で女性を口説いているのだけは、私はヒアリングが上達したという事をここに書いておこうと思う。

常に喧嘩している母たち、荷物をマンションの11Fから1Fの駐車場に投げて大騒ぎになったり、大きなウエスタン野郎のソファーを一人で運び出して警察沙汰になったりとろくでなし地獄を味わった、思春期に実父などすっかり忘れていた。

他の人と再婚したと母から聞いたので、そうなんだ。。と他人事に思っていたのに今さら?私が法定相続人という事は、兄しか居ない弟の父は亡くなったんだろうと思う。
それが自然な考え方で、何故あの大きな家を相続してないのか不思議だ。

きっと恐ろしい程の、借金があるとか人には言えない争うごとがあるのかもしれないし足が不自由で大変な私としては、関わりたくない。
でも、もし亡くなっているのならお墓参りは行きたいと思う仁義だと思うからで、どんな人でも親には変わりなくこの世に私を送ってくれた人の一人でもあるわけなのだ。

母に話すと「財産があるんじゃないか?」と浮かれているが、どうかしている・・・もう、話す気はなくて黙っているほうが私は楽だと思う。
なんで、そんなにお金が欲しい?実家もあるし孫も居るのに満たされないんだね。私もお金全然ないけど、それなりに暮らしている。

感謝することを忘れず、同じ過ちを繰り返す人とは距離を保つ
まずは、自分が生き抜かないとそれこそろくでなしの人生になると思うのだ。父との思い出は、釣りによく連れて行かれた事・・・
小さなボートに乗って、父が魚を釣り魚拓を取る
私は、ボートに何故かいた小さなタコの動きにおびえて泣いていた
そんな私を、父が抱いてくれて鼻歌をよく歌っていた
私には優しくてあぐらの間に私がちょこんとすわっていたり、海を見によく行った。

父の手を握りしめた私は、父の影を見ていたと思う
私に寄り添うようにいつもそばにいてくれたはずの、父は天国に行ったのだろうか?
いきなり現れた、叔父さんになんと呼べばいいのだろう・・・6歳頃か上野のパンダを見に連れて行ってくれたおじさん。
おじさんが買ってくれたパンダのぬいぐるみにおばあちゃんが、手縫いの着物を着せていたけど嫌だったよとでも伝えようかと思う。

生きているとこんなひょんな事もある、まだ何かが起こるかもしれないから生きているのが楽しみでもある。何事もポジティブに受け止める私の血筋は父方の血を受け継いでいると強く思う。
恨みからは何も生まれず、その言葉を他人に伝えれば多くの毒をまき散らすだけで誰もいい気持ちにはならないという事を思う、冬の手前の夕方にて。





私の望む世界を自分なりに表現したいと思います。大体実話でございますのでよろしければ、読んでいただけましたら小躍りしたいと思います。足が不自由になってからより書きたいと思う事が増えてまいりました。私には背中に翼があることを隠せない性分なのです☆