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Frank Sinatra – My Way

むわ〜ん(としか形容しようがない)匂い立つ、ドアを開けた瞬間に鼻腔を刺激する、あのスナック臭(としか形容のしようのない)が僕は嫌いではない。香水やタバコ、フェロモン、アルコールのみならず、スナックフレーバーとでも言うべき特殊な香料がブレンドされたのではないかとしか言いようのない、あの匂い、である。

僕は幼い頃、スナック通いをしていた。といっても、酩酊した祖父を迎えに行ってただけのこと。祖父がおとなしく帰ってきてくれたから、らしい。祖父にしてみればかわいい孫を自慢できるし、僕にしてもママやお姉さんたちにちやほやされるのが嫌いではなかったので、スナックにおける僕と祖父はウィンウィンの関係だったと言える。

そんな空間で、ママがくれたオレンジジュースを飲みながら、ときおり耳にしていたのが、“ムーン・リバー”とか“マイ・ウェイ”などの曲だった。甘いソフトな声で、しかし抑えきれぬ助平心が滲み出たかのような下卑たにやけヅラで歌われる曲を、僕はとてもいやらしい歌だと思っていた。たまに英語で歌うハイカラな人もいて、英語、というものを認識したのも、これが最初だったかもしれない。

そんな環境に馴染んでいたせいか、幼い僕はフランク・シナトラを、加山雄三とか石原裕次郎と同じカテゴリーに入れていた気がする。両親が聞いていたアンディ・ウィリアムスも、脳内の似たようなエリアに収納していたはずだ。

前置きが長くなったが、“マイ・ウェイ”である。

“ムーン・リバー”といえば、アンディ・ウィリアムスだけど(アンディについてはいつかまた)、“マイ・ウェイ”といえば、もちろんフランク・シナトラである。彼の後半生を代表するこの曲を含むこのアルバムがリリースされたのは1969年。団塊世代の洋楽好きなら、たいてい持っていたのではないだろうか。もちろん、うちにもあった。

この曲は、クロード・フランソワによるフランス語の曲を、ポール・アンカがシナトラを思い浮かべながら英語詞を書いたもの、らしい。シナトラによるヒットの後、世界最多クラスにカバーされ、極東の島国のディープサウスでも歌われることになった言わずと知れた大名曲である。エディット・ピアフの“愛の讃歌”もそうだけど、フランスの曲はなんと美しく饒舌なのだろう。

1960年代後半は、控えめにいってもシナトラの全盛期ではない。むしろ、ヒッピーカルチャーの最盛期であるこの時代、若者にとってザッツ・エンターテイメントなシナトラは、唾棄すべき存在だったはず。そんな時代に放たれたのが、“マイ・ウェイ”である。

短かったパックスアメリカーナの終焉、泥沼化する戦争、混沌とする時代。終幕を意識し始めた男が歌う、死に際の男が人生を振り返る歌は、多くの守旧派の胸に響いたにちがいない。かくいう僕も人生の最終コーナーが見えてきた今になってようやく、この歌の凄みがわかったような気がする。

“マイ・ウェイ”にまつわるよくある思い出をくどくどと書き連ねてしまったが、このアルバムが記憶に残っていたのは、シナトラ親分が歌うポール(マッカートニー)の“イエスタデイ”と、ポール(サイモン)の“ミセス・ロビンソン”が好きだったから。ロックのレコードなど一枚もないうちのような家庭で育った団塊ジュニア世代は、“イエスタデイ”といえばシナトラかアンディを思い浮かべる人も多いはず。

なかでも、1番のお気に入りは“ミセス・ロビンソン”。シナトラの代表曲はどれもアレンジが素晴らしいのだけど、これもそのひとつ。テーマメロディを大事にする、ザッツ・エンターテイメントなアレンジがハマりすぎているせいか、学生時代にはじめて聴いたオリジナル(ポール&サイモン)のショボさにびっくりした記憶がある。

それにしてもなぜ、シナトラはこの曲を歌ったのだろうか。たしかにヒット曲ではあるけど、親分が若者に媚びるなんて考えられないし、歌詞に出てくるジョー・ディマジオとはマリリン・モンローとのこともあり、仲が悪いとも言われていたはずだから。「そういや、そんなこともあったな」とかほくそ笑みながら、歌っていたのかも。

ちなみに、今ボロボロになったレコードジャケットを見ていて気になったことがある。まずは、ラフな格好である。終演後の客席でリラックスする演者を演出しているのか、あるいは自分はもうステージを降りた人間なのだ、ということか。そしてもうひとつが腕時計。ググったらシナトラ親分はBULOVAとの関係が深かったらしいので、おそらくは同ブランドのレクタンギュラーケースモデルかも。ラグの形状からカルティエのタンクかな、とも思ったが。


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