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Son Volt - Day of the Doug


この国におけるアーティストと政治に関する議論については、「音楽家が政治的発言をするのはけしからん!」とか、「欧米ではアーティストが政治的な立場を表明するのが一般的だ!」とか、「バイアスなく純粋に音楽を楽しみたいだけ」とか、そもそもフォークソングは……、ブルーズは……、とかさまざまな意見が見られる。

そんな議論を目にするたびに、作品のクオリティが高ければどっちだっていいじゃないか!と思っていたが、果たして本当にそうだろうか? という疑念が浮かんできた。

たとえば、作者が維新とか新選組とか、幕末的なネーミングセンスをもつ政党の熱烈な支持者だったら、思想云々以前にワードセンスや美的センスに対して懐疑的になってしまい、作品に接する前に身構えてしまう可能性もなくはない……。

冗談はさておき、と書きかけたが、案外核心をついているかも、と、Son Volt『Day of the Doug』と頂き物のワインに感動しながら、そう思い至ったのだ。

政治思想とは、ざっくり言えば生き方である。自分の生き方を仔細に語るか、あるいは黙して語らずただ作品に込めるのか--その選択も作家の哲学によるものだし、そもそも優れた作品には、作者の思想、批評性のようなものが反映されているはず。どんな音楽を好み、リファレンスにし、そこから何を読み取り批評性を加えるかという創作過程において、作家の哲学は少なからず反映されるのだから。

我々は、無意識下で音楽に滲み出る作者の政治思想を敏感に感じ取った末に、作品を選択しているのかもしれない。つまり、自分の好みではない、あるいは優れていると認め難い音楽家とはそもそも、政治思想的なマッチングが良くない可能性が高い、ということ。

さらに言えば、作家の政治的ステイトメント次第でファンをやめるなどと発言してしまう人は、そもそもその作品を正しく評価できていなかったか、あるいは己の思想信条が自己認識と違っていたかのどちらか、ということになるのかも。

ここまでくると飲みすぎだろうか。音楽のみならず、ワインにも作者の思想が込められているわけで、飲兵衛なら一口飲めばこの醸造家と友達になれるかどうかすぐにわかるはず。おそらくは気のせいだろうけど、そう思わせてくれるワインが僕は好きなのだ。

ルーツに対する敬意と批評性をもって、独自の音楽を作り続けるJay Farrarもまた、僕が信頼を寄せるマイスターの一人。そんな彼が取り組んだDoug Sahmトリビュート作品が悪いわけもなく。熟練の技が演出するワイルドな味わいがたまらない。もしJayと居酒屋で隣り合わせになったら意気投合できるかも。また、日本に来てほしい。


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