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『aftersun/アフターサン』をみた


日本のディープサウスの鄙びた里山から車で約1時間。久しぶりの映画館で、話題の『アフターサン』を鑑賞してきた。なぜ、この映画が気になったのか自分でもわからないが、とにかく劇場で見なければという気になり、突発的に出かけたのだ。

わからない、と書いたのは嘘だ(つい大袈裟に書いたり、誇張した表現をしてしまうので気をつけたい)。僕がただ娘と父の物語に弱いだけ。未婚だし、娘すらいないが、なぜかグッとくるのだ。ソフィア・コッポラの『SOMEWHERE』が好きなのもそれが理由だ。映画的な評価について僕には判断がつかないけど、とにかく好きなのだ。この『アフターサン』(シャーロット・ウェルズ監督)も、おそらくそうした類の映画だと思って僕はクルマを走らせたわけだ。

結果的に『SOMEWHERE』のような映画ではなかったが、『アフターサン』はとてもよかった。感想的なものは省略するが、とても映画的な作品だった。こうした作品が製作され、ヒットする世の中はまだまだ捨てたものじゃない。帰り道にそんなことを考えたりもした。

何が描かれているのかわかりにくいという評を事前に目にしていたから、1カットも見逃すまいという姿勢で鑑賞したのがよかったのか(映画鑑賞とは本来そういう態度で臨むべきものなのだろう)。むしろ親切すぎるのではないか、とすら思った。

ご覧になった方ならわかるはずだが、主人公の心情がとにかくいろんな方法で、これでもかというほどに描かれるこの作品に、肝心な部分を誤読する余地はあまりない。※重要なシーンでQueenの『Under Pressure』が使われていたり。

むしろあまりにパーソナルなことを丁寧に描きすぎてしまったかもしれないと狼狽えた(?)監督が、いろんな部分を削ったり、シーンを差し替えたり、入れ替えたり……、とくにセクシャリティの問題についてなど自由な解釈の余地を残そうとしたかもしれない痕跡がところどころにあって、その努力がこの作品を特別なものにしているような気がする。

この作品は映画的であると同時に実に音楽的だ。歌詞のある歌ものを思い浮かべてほしい。「ああ、なんて憂鬱な日々だ!」と主人公に語らせる歌よりも、情景描写の積み重ねによってその抑鬱の深刻度、あるいは軽さが描かれた歌にこそ我々は心を揺さぶられるはず。もちろん例外もあろうだろうけど。

歌詞のみならず音楽面でも、その抑鬱を表現するべく、曲の展開をあえて単調にしてみたり、反対に不必要なほどに目まぐるしいコードチェンジを挟んでみたり、調性をあやふやにしてみたり……。あるいはサビから始めてみたり、当初のエンディングを途中にもってきたり、あるいはエンディングで転調することで余韻を強調したり……。そうしたさまざまな工夫が作者の思惑通りに、あるいは意図とはかけ離れたところで鑑賞者に評価された結果、名曲というものは誕生するのだろう。もちろんタイトルも重要だ("アフターサン"というタイトルはとてもいい)。

スペイン生まれの映画監督ルイス・ブニュエルに影響を受けてロビー・ロバートソンが書いたというThe Band "The Weight"を聴きながら、そんなことを考えていた(The Bandというバンドは、つくづく映画的だ)。『アフターサン』は、そう簡単には下ろせない重荷ってのもあるんだよな、という映画だった。

Bob Clearmountainによる『Big Pink』のDolby Atmos Mixというのがあるらしい。


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