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Happy & Artie Traum - Double-Back


ソバの実をどれくらい挽けば、どんな味わいになるのか--蕎麦屋でもないくせにそんなことが気になって、一度祖父母の家にあった石臼で試したことがある。まあ、農閑期の農夫は暇なのだ。

挽き始めの最初の方に出てくる、実の柔らかい部分(多分)の白い粉は、いわば蕎麦の一番搾り。そのあとの二番粉、三番粉になるにつれ、どんどん粉の色は濃くなっていく。それにともない、そばにしたときの喉越は悪くなるが、風味が増す。

挽き具合と小麦の混ぜ具合、さらには切ったときの太さ、茹で加減、蕎麦つゆの風味など、いろんな要素はあるものの、蕎麦屋の個性を演出するのは、蕎麦の喉越しと風味のバランスなのだな、と実際に挽いてみてそんなことを再認識した次第。

個人的な好みを言えば、実の甘皮くらいまで挽き込んだ、風味のあるそばがいい。日本酒でも、大吟醸よりも純米酒の方が好きなので、雑味すれすれの香りとか旨みのようなものを好む性分なのだろう。

Happy & Artie Traumの『Double-Back』もまた、精米歩合80%くらいの純米酒に合わせたくなる、野趣と洗練のバランスが僕好み。このアルバムを手にしたのは、20歳くらいのときだから、30年くらい前のこと(『レコード・コレクターズ』誌のウッドストック特集で知ったはず)。兄弟の音楽的出自であるとか、バックの演奏は誰だとか、そんなことはよく分からなかったけど、なんだかとてもしっくりきたことだけは覚えている。

飽き性の自分には珍しく、今に至るまで愛聴盤であり続けている理由はおそらく、そこにある“無作為の美”というようなものが琴線に触れたのではないか。あるいは、作為的なものから遠ざかろうとする営為そのものが作為的であるという、人間の哀しさみたいなものを、身体的にかぎ取っていたからではないか……。

そんなこんなもすべてはもちろん後付けだ。最初はわけも分からず気に入っただけ。そもそもヒトの行動のほとんどは脊髄反射的なものにすぎず、脳がおもむろに理由づけをして、我々はそれを自分の意思だと勘違いしているだけなのだ。だいたい久々にこのレコードをターンテーブルに載せたのだって、僕の意思ではないのかもしれない……。

とにかく、同作が名盤として今も語り継がれているのは、香りがどうだとか、ごちゃごちゃいう前に、口に含みただ一言「うまい」と静かに唸ってしまうような、シンプルだけど濃密な味わいのおかげだろう。米の甘みが云々、香り云々、歳をとるとなぜ「うまい」のかを考えてしまいがちだが(それはそれで楽しいのだけど)、大切なのは反射的に「うまい!」と身を震わせる感覚であり、そんな自分の直感を信じること。

蕎麦だとか、日本酒だとか、あげくあの時代のウッドストック関連のレコードの話とか、若者に嫌われそうな"ロックおじさん"みたいで嫌だなあとは思うが、仕方がない。十分におじさんなのだし。とはいえ、ただ無駄に長生きしてきたわけでもなく、当然長い時間を経て気づくこともあるわけで--たとえば、Artie Traumの楽曲がどうやら好きらしい、とか……クレジットをチェックしながら聴けば、すぐに気づく程度のことではあるけど。その後のソロアルバム等で披露していた楽曲(下の曲とか)も本当にオシャレ。いつまでも古くて新しい。僕もそんなおじさんでいたい。


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