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The City ‎– Now That Everything's Been Said

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のんびりとした田舎暮らしに憧れ、実際に移住してしまう“おっちょこちょい”がときどきいる。人生の楽園を求めてくる人だけじゃなくて、老若男女いろんな希望や事情を抱えてやってくるのだが、そのほとんどが1〜2年でギブアップしてしまうのが実情だ。

そこには、濃密な人付き合いとか、シンプルに不便であることとか、いろんな“想定外”があったのだろうけど、いずれも周囲が事前に忠告していたことなので、移住リタイア組には失礼極まりない言い方になるかも知れないが、“おっちょこちょい”と呼ばせてもらう。もちろん、そうじゃない移住者もいるわけで、激動の1960年代にニューヨークからロスへと移住したキャロル・キングは、移住成功組のひとりだろう。

The City ‎– Now That Everything's Been Saidは、ニューヨーク生まれのキャロル・キングが、ローレル・キャニオンへの移住後に手がけた作品である。ローレル・キャニオンは、多くのミュージシャンが活動の拠点とした、ウェストコーストロックの震源地。時代は1960年代後半。かつての勢いを失ったソングライターである彼女にとっては生き残りをかけた移住だったのではないだろうか。

ではなぜ、ソロ名義ではなく、The City名義だったのか。この名義にこだわったのはキングだったとか。パフォーマーとしての本格デビューに対する不安や、自作自演のバンドスタイルへのこだわりなど、さまざまな思惑があったのだろうし、数々のヒット作を生み出してきた彼女なりの勘のようなものも働いたに違いない。セールス的には失敗に終わった本作ではあるが、キング的にはほぼ狙い通りに仕上がった作品に手応えを感じていたはずだ。

今でこそ70年代のシンガーソングライター・ブームの先駆けとなった名盤として親しまれているが、60〜70年代のロック好きおじさんの中には、ラフすぎて完成度が低いだの、曲が地味だとか、後のソロに比べるとアレンジがこなれてなくて物足りない、とかキングのボーカルが下手すぎるとか、ネガティブな評価を下す人が少なくない。一方で、その絶妙なラフさは、キングの狙ったものなのであり、それこそが本作の魅力の一つなのだと見る向きもある。

後のソロキャリアの習作だとか適当なことを言ってしまうおっちょこちょいもいるかもしないけど、数々のヒット曲を生み出してきたキャロル・キングに関していえば、習作といった安易な言葉が適切であるわけがなく、そこにはやはり確固たる意図があったと見るべきだろう。

気心の知れた仲間とのリラックスしたリハーサルの賜物とも言えるオーガニックなアレンジ、惚れた腫れただけじゃない内省的な歌詞、かつてのような派手さはないが滋味深い楽曲、アーシーなサウンドなどによって、西海岸らしい自由さや可能性に満ちた雰囲気、新たな価値観など、時代の空気を纏ってみせる--これぞプロの仕事である。そのための移住だったのだろうし、その体験を見事にアウトプットしてみせたという点もさすがとしか言いようがない。

とかなんとか考え事をしながらも、僕の耳が追ってしまうのはいつもジム・ゴードンのプレイである。シンプルな素材を巧みに配したサウンドプロダクションもいいが、その要となっているのは間違いなく彼のドラム。それにしてもなぜ、彼の名はThe Cityの一員としてクレジットされなかったのか。セッションドラマーとして有名過ぎたから? 

もうひとつ気になるのは、“The City”というプロジェクト名である。名付け親であるダニー・クーチは、そこにどんな意味を込めたのだろう。ニューヨーカーにとって“The City”とは、マンハッタンのことらしいと、どこかで読んだことがあるけど、ブリル・ビルディングを代表するヒットーメーカー様の新プロジェクトであることをアピールしようとしていたのか……。

あるいは、ウエスト・コーストの雰囲気に馴染んだと勘違いしている都会人の郷愁か。ジャケットに映るなんだか居心地悪そうな面構えは、アメリカンニューシネマの主人公みたいでもある。

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