NoSPコンサートに参加して(2024年5月5日)

 5/5のこどもの日に、岩手県一関市で開催されたNoSP(ノーエスピー)コンサートに足を運んだ。その感動の余韻がやまないので、イレギュラーなスタイルながら、その感想を。

 一関工業高等専門学校に通っていた天野滋、中村貴之、平賀和人の3人が1972年に「NSP」というバンドを結成し、73年にヤマハの「ポピュラーソングコンテスト」で「あせ」という曲がニッポン放送賞を受賞し、同年「さようなら」という曲でデビューした。

 NSPは1987年の活動停止までの間に、アルバム17枚とシングル28枚をリリース。(アルバムではこのほかに天野さんのソロアルバム「あまのしげる」がある)。

 既に天野さんと中村さんは天国に旅立たれていて、唯一のメンバーとなった平賀さんと、同じく東北出身で「ロード」で知られる「THE 虎舞竜」の高橋ジョージさんによるセッションがNoSPだ。

 高橋さんは幼い頃にNSPの音楽に触れ、コピーをするなど音楽活動の幅を膨らませていったそうだ。ライブではNSPの楽曲を愛する気持ちや、天野さん、中村さんとの交流を深めていたさまが、とても伝わってきた。今年(2024年)がNSPデビュー50周年に当たること、そして5/5が天野さんの誕生日であることから、今回のライブが実現したと、高橋さんから説明があった。

 NoSPのライブは昨年(2023年)、東京でも開催されたとのこと。その時に観客から「地元でもライブをしてほしい」という声が上がり、高橋さんが一関市に企画を打診して、今回は一関市が主催する形で行われた。ライブの途中に佐藤善仁・市長が登壇して、高橋さん・平賀さんに、一関市の魅力を広く発信する「いちのせき大使」の委嘱状を手渡していた。

 ライブの会場は一関文化センター。1217ある座席のほぼ9割が埋まっていたことが驚きだった。センターの駐車場は会場1時間前から満車になっていて、周辺の喫茶店は旧交を温め合う人たちの姿を多く見かけた。
 車は主に岩手や宮城、福島ナンバーが多く、会場内には「THE 虎舞龍」のファンも大勢いたと思う。NSPファンは女性がメインで、男はおとなしめの「昔の少年」が多かったのに対して、高橋さんのファンは虎舞龍のロゴや高橋さんの顔がプリントされたシャツを着ていたり、内田裕也や葛城ユキを彷彿とさせるような出で立ちをしていたので、言葉を交わさなくとも識別できたw。
 もう一つ再認識したのは「自分はNSPファンの中では若手」だということだった。
 私がNSPを知ったのは1976年で中学校一年生の時。その時点はNSPは5枚目のアルバム「2年目の扉」を出したばかり。デビューからのファンは、平賀さんと同世代とするなら自分とは10歳くらい年上の人たちだろうと思っていたが、会場に集まった人たちを見て、そのことを痛感した。

 ライブは熱心なファンのための構成となり、初期の曲に集中した。特にファーストアルバムでは「ボーカルなんていらないよ」「便所虫」以外、セカンドアルバムでは「眠くならないうちに」「夜更けの街で」「そんな事のくりかえし」「おとぎの国のお話」以外の全曲を演奏した。

 1960~1970年代の音楽に触れている人なら分かると思うが、この頃の音楽は1曲の時間が2~3分程度と短い。高橋さんと平賀さんはライブが始まってから、途中に休演を挟むことなく約25曲(?)を披露してくれた。曲が終わるごとに高橋さんが、ファンの思いを代弁するように平賀さんに語りかけ、天野さん、中村さんにまつわるエピソードを披露してくれた。

 71歳になった平賀さんは、「夕暮れ時はさみしそう」でリードボーカルを取るなど全曲のベースラインを担当していた。MCの時に話してくれた内容から、野球やゴルフで健康づくりをされていることが分かったが、後半は少しキツそうだった。それでも「(かつての自分たちの曲を)懸命にコピーしてきた」と話す通り、担当するベースラインのしなやかさは、レコードと同じで色あせててはいなかった、

 パフォーマンスをサポートしてくれたのは「THE 虎舞龍」の歴代メンバー。1度目のアンコールで高橋さんが「ロード」を唄った以外は、全曲NSPの曲で約2時間半、駆け抜けた。

 オーディエンスは「ふきのとう」のライブとほぼ同じ反応で、立ち上がる人もなく、淡々としているようだが、みなそれぞれに楽しんでいる様子が伝わった。アンコールを求める手拍子が力強かった。

 私も楽しんだ。アレンジを変えても曲が持つ風景を壊さずに伝えてくれた「さようなら」、CharとNSPが織りなした世界をそのまま再現してくれた「コンクリートの壁にはまされて」、そのほかにも「いい」「君と歩いていたくて」「お休みの風景」などのイントロとハーモニーには感動し、「スケッチ」「風信子」「おちばは夏の忘れ物」など、車の中で聴いてはいたが何年も口にしていない曲が始まったときには鳥肌が立った。。。

 本音を言うなら、後発部隊として14枚目までリアルタイムで聞いていた人間として、円熟期にさしかかった楽曲も聴きたかった。「シャンテの街」「ねぼけまなこのスーパーマン」「碧き空は永遠に」「砂丘」など平賀さんがボーカルを取る曲がもっと聴けるかもと思っていたし、私の中で大好き度の高い「見上げれば雲か」「愛のナイフ」「Rain」「愛のロジック~論理~」「マダ愛シテイル」のどれか1曲でも…という淡い期待があった。

 だが、開演前の会場を埋め尽くした人たちの顔を見て「自分がNSPファンの中では若輩者」であることを痛感し、そしてライブが始まってから演奏される曲を聴くうちに、私は悟った。

 演者と観客が一体となったこの空気はNSPの50年の歴史の中で育まれたもの。純粋にその空気を感じて楽しめばよいのだと。

 楽しかった時間はあっという間に過ぎて、18:00近くに会場を出ることができた。出口に向かう人の波に並び、ゆっくり会場内の通路を歩いていると「夜」という曲が流れてきた。「もっともっと楽しいこと探そ もっともっと面白いこと探そ」というサビのフレーズが聞こえてきて、ともに口ずさみながら、なぜだか涙が出てきた。

 会場から外に出て、夕暮れ前の闇が押し寄せとする中を、JR一ノ関駅の方向を目指して歩いた。(余談ですが「一ノ関駅」には「ノ」が入るのですね…)。小ぎれいなまちなみで、随所随所でまちの偉人や歴史を紹介する工夫をされているようだったが、営業している店舗は少なかった。それでも、旧さとう屋楽器店や一ノ関駅で列車の到着時に流れる「夕暮れ時はさびしそう」に耳を傾けながら、心と足どりが軽くなっていたことに気づいた。

 オリジナルメンバー構成ではないNoSPは、NSPを今に受け継いで再現してくれた。「きっと天野さんも中村さんもここにいてくれている」。高橋さんのメッセージは多分本当で、ライブの間、私は間違いなく50年近く前の自分に戻っていたのだと思った。

 壇上で平賀さんは、高橋さんへの感謝の気持ちを何度も伝えてくれた。けれども高橋さんと平賀さんから「またいつか。どこかで」という言葉が口をついて出ることはなかった。「再び」はないのかもしれないな。

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