【言葉の重要性】

この記事ですが、過去のメルマガに於いて配信させて頂いた内容です。

人が人になんなかの意志を伝えるとき、その手段の最もたるものに言葉(言語)がある。

仕草や表情、言葉の温度や雰囲気といった非言語もそうだが、ある意味、万人に意思を理解してもらう為には、言葉を引用することが最適な一因であることは確実なものだといえる。

普段、我々が当たり前のように使っている言葉に付いて、私なりの見解を文字に掘り起こしてみたいと思う。

《言葉の真実性》
万人すべてに適応するといっても過言ではないほど、よほど世間から誤解であれ信頼されていない人間でない限り、言葉を発した人間の人間性や間柄の有無に関係なく潜在意識は拾った発言をひとつの真実として受け取ってしまう。

このひとつから分析してみてもそうだが、我々の脳と心は本質的な見えない部分を捉えることよりも、表面や物事の一端だけを捉えて判断を安易に下してしまう傾向を合わせ持っていると考えていいだろう。

《伝染する力の怖さ》
よって特に人が対象となる場合に於いては、一時的なものにせよ、永続的なものにせよ、感情論で言葉を発してはならない。

それは場合により、人の一生を奪い、人権を侵し、名誉を傷つけ、人心を蔑ろにする力を持っているからである。

そしてこれらは感染し、噂に発展し、集団化へと移行する恐るべき破壊性を秘めている。

と同時に対象となる人物には一切が遮断され、事の真相を知る頃には万事の事態にその身を置かれているだろう。

言葉にはそれだけの力を孕んでいる。

よってこれら言葉に思いやりが備わっていたならば、人類は本当の意味に於ける平和を共有出来るのではないだろうか。

《主観と客観》
発した言葉そのもの自体が、伝えようとしている、伝えたいことは唯一ではあるが、解釈は受け手によって委ねられ、様々な方向性へと導きかねない。

この要因に付いては、発した言葉そのものにも定義付けられる。

言葉本来の意味合いの損失の理由には、幾つかの要因が挙げられるが、それら要因を埋める手段が存在し、それは理解力でしかない。

相手の立場になり、その言葉の本質を読み取り、言葉(心)の意志疎通を図るには理解を示すしかない。

この理解力で、主観と客観が埋まり、共感に至らないとしても真に言葉の意味するものを知り、反論にせよ、正当たる意見交換行為が芽生える。

それは正しい肯定と否定であり、理解力であり、言語と非言語から真意を紐解く冷静な考察力から起こる見極めと云える。


《忍耐の重要性》

では、そう簡単に言葉そのものを理解することは可能なのか!
この一点に付いて触れていきたい。

言葉の意味そのものを妨げる要因は対人関係であり、感情に託され、根本は思考を司る潜在意識にある。

固定観念や常識、先入観や決め付けというフィルターを外すことで理解に結び付く。

理解に結び付くことが要なのである。
その関係が価値観や敵味方、疎遠化など諸々の要素の度合いが共有を成してないほど、理解力には必要なほどに忍耐力が要求される。

個人的感情という枷を外すことに尽きる。
加えて読解力や言語力、判断力、考察力である。

つまり、言葉は言語を通して人の思いを明確に表現する最大のツールでもあるが、思慮の度合いや凡庸さの優劣によって諸刃の剣とも云える扱うには両面を含んでもいる難儀な存在でもありうる。

言葉という伝達機関が表す図式は【〈意味=言葉〉=〈理解〉】に比例する。

よって忍耐は言葉の本質を理解するにあたり、重要かつ不可欠な能力のひとつであると結論付けることができる。


《言葉の威力》
我々が意識することなく、日々、発している様々な言葉を通して世界は動いている。

言葉の持つ特性と性質を理解したうえで、慎重に言葉を選び発言することで、誤解を招いたり流言に惑わされずに、清らかな水面のように自他の人間性を尊重できる。

我々、人類が言葉を話せなかったり、この世に言葉が存在しなかったと想定したならば、言葉が存在する重要性やそれ故の危険性にも思考を巡らせることなど水泡に帰す卓上の空論に留められたに違いない。

そうすることで言葉そのものに操られずに、言葉を大切に扱い、言葉を通して、我々は真の共存生活を育むことが、より確かな現実のものとして、当たり前の認識と常識のもと、健全に過ごせたであろうと確信を持たずにはいられない。

最後に諺をひとつ、記載させておきたい。

[流言は智者に留まる]

根拠のない噂はすぐに広まるが、すぐれた人が聞いても誰にも言わないから、そこで留まってしまう。

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