アルバカーキ・サーガ終幕に寄せて
『Breaking Bad』の放映開始から14年、『Better Call Saul』の放送終了によって、アルバカーキサーガは大団円を迎えた。
思えばこのサーガを観る体験を通じて、人間という存在がいかに弱く、いかに複雑で、いかに理解しがたいものであるかを、徹底的に突きつけられたように思う。このサーガを見る前の自分と見た後の自分自身は全く違う存在へと引き裂かれてしまった。このような、一聞すると大袈裟な思いを抱くファンは世界中に数えきれないほど存在するはずだ。それほどにこのドラマは人間の濁ったエゴイズムを(高度な映像的修辞と、救いのない因果応報の連続によって)描き切った。
悪と悦楽
『BrBd』におけるウォルター・ホワイトがメタンフェタミンを精製すること、『BCS』におけるソウル・グッドマンが巧みな詐術を用いることは、まごうことなき悪行である。しかしその悪行は(非常に歪ではあるものの)利他的な行為としての側面をもっている。ウォルターのメス精製は「家族のため」に行われ、ソウルの詐欺まがいの弁護術は、マトモな弁護人から見放された犯罪者たちを弁護するという意味で、他者救済の意味をもつ。だからこそ、このドラマにおける悪は、各人物の存在理由と強固に結びついてしまっている。ウォルターは高純度のメスを精製する過程、ソウルはその弁舌を振るう瞬間においてのみ、他者から必要とされ、悪行のスリルによって生きる実感を獲得している。
人間は大小の程度はさまざまあれど、誰もが悪の悦楽に魅せられてしまう。ウォルターの資金洗浄を手伝うスカイラー、ソウルと共にハワードを陥れるキム…程度の大小あれ、悦びを感じるために悪を行使した存在は、このサーガにおいて枚挙にいとまがない。
『BCS』終盤において、ソウルとキムに陥れられたハワードが発する言葉は、悪が悦楽を内包していることの告発であり、このサーガで悪を行使した人々全てに対する糾弾である。
「“悪“は、それが悪いことだから“悪“である」というトートロジーがいかに空虚なものか。悪は時に利他となり、時に抗いようがないほど楽しいのだ。悪によって人々は結びつき、それぞれの存在価値を見出す。思えばこのサーガは、全編を通じて悪の複雑な内実を徹底的に解体し、悪と悦楽が表裏一体であることを証明する試みの連続であった。
親子と兄弟
ウォルターホワイトは、先天的な脳性麻痺をもつ息子ウォルターJr.に対し、適切な距離感を見出すことができていない。ウォルターJr.が洋服店で同級生に侮辱された際、その同級生を過度に痛めつけたのは、息子のための激昂でもある一方で、父親としての威厳に泥を塗られたことに対しての激昂でもあった。また、車の運転を両足で行おうとするJr.に対し「正しいやり方」を教えたのは、ウォルター自身が息子に対して「普通」で「正しい」像を押し付けたい欲望の表出でもあった。
ウォルターは、自らが父親と構築できなかった理想の親子関係を希求していた。そしてその対象はいつのまにか実の息子からジェシー・ピンクマンに移行することとなる。ウォルターの悪行は、金銭や自身の能力の誇示のためだけではなく、実の息子との間に取り結ぶことの出来なかった理想の親子関係の創造という側面も孕むものであった。(マイクがジェシーを眼差す視線も、ウォルターと同根の欲望を孕む。だからこそ、マイクは同じ欲望をもつウォルターによって殺されればならなかった。また、そのような欲望を押し付けられたジェシー自体も、彼を支配する全ての"父親"から解放される様を『エル・カミーノ』によって描かれなければならなかった。)
一方でBCSの主人公であるジミー・マッギルは、兄チャックという存在と、その呪いに囚われた人物として造形されている。弁護士として非常に高い能力をもつ兄を上回るために、彼は詐欺まがいの話術を用いることしかできない。チャックにとって、神聖な法を愚弄する「滑りのジミー」は法曹界にいてはならぬ存在である。しかし同時に、巧みな弁舌を振るい他者の心を動かすジミーの能力は、皮肉にも兄のチャックに欠けているものでもある。元はといえばチャックへの劣等感によって端を発したジミーの行動が、チャックの憤りと劣等感を擽り、彼らの間の溝は一切埋まることはない。周囲の人々に対し打ち解けた態度で接し次々と心を開かせる弟に対し、チャックは嫉妬や執着を隠すことができず、それがさらに弟の過激な行為を助長する連鎖が構築されてしまっている。
彼らの間の確執が拗れに拗れた結果、S3E5においてジミーはチャックを徹底的に打ち負かす。神聖な法廷という場で、同僚のハワードや元妻を前に、チャックの語る真実の全てが妄言に聞こえるようなトリックによって、ジミーはチャックの尊厳と法に対する畏敬とを踏み躙る。
自らの理想の実現と存在理由の証明、その引き換えに悪行を重ねたウォルター・ホワイトとジミー・マッギルには、それぞれの報いが下ることとなる。
破滅と贖罪
『BrBd』におけるウォルター・ホワイトは、ハンクの仇を取り、ジェシーピンクマンを救出するために自らが放った銃弾によって絶命する。その姿に重ねられるのは、Badfinger『Baby Blue』である。
絶命の間際、ラボの機器を撫でるウォルターの姿に重ねて歌われているのは、自身が生み出したブルーメスに対する愛情である。ここで、ウォルターは己のエゴと向き合い、罪の代償としての死を引き受ける。その様は、ロックバラードの軽快さも相まって、ある種の清々しさを感じさせる。自身の欲望に固執した故の行動が、雪だるま式に大きな災いと化し、それによって主人公が絶命するというこのラストは、ドラマの中でウォルターが鑑賞する『スカーフェイス』の型をなぞっている。トニー・モンタナとウォルター・ホワイトの大きな差は、破滅の後に自身の悪を直視し、それを引き受け、愛した姿が描かれたか否かにある。たとえその悪の先に、自分の死が待っていたとしても、ウォルターは自分の行いを後悔していない。
一方で、『BCS』の最終話はあらゆる人物の「後悔」に焦点が当たる。エピソードの終盤に挿入されるジミーとチャックの対話の果てに、ランプの側に置かれるH・G・ウェルズ「タイムマシン」が象徴的に映される。この本をジミーが所持していることは、S6E1のアバンシーンにおいて確認できる。ここで暗示されるのは兄弟が共に互いの関係に後悔を抱えていたこと、また、互いに嫉妬や侮蔑を繰り返したこの兄弟は結局似たもの同士であったということである。
(本筋から逸れるが、上記の対話について、ジミーがピンキーリングを着けていることと台詞から推察されるタイムラインが矛盾しているという指摘がある。個人的にも、チャックがウェルズの古典的SFを好んで読む人物像であるか、という点に疑問は残る。この対話全体が、ジミーの願望が見せた幻影だと解釈することも可能だろう。ここまで徹底した作劇を貫いたドラマシリーズが、あえて矛盾点を視聴者側に投げかけ、多様な解釈の可能性を託したのではないか。)
真の意味でチャックに対する贖罪と弔いを行うために、ジミーは法廷という場で、自身が犯したあらゆる"罪"を語る。ジミーはドラマの最後に、法廷を、取り引きや駆け引きの場ではなく、罪を告白する神聖な空間へと引き戻す。
彼が"ソウル・グッドマン"の衣装を纏って"ジミー・マッギル"として証言を行ったことに、どのような意味があったか。ここで試みられたのは、ソウル・グッドマンというペルソナを消滅させることではない(もしそうであれば、わざわざソウルの衣装を着る意味がないはずだ)。その肥大化したペルソナを作り上げたのはジミー・マッギルであった、という事実を、一人の人間として引き受ける試みであったはずだ。
だからこそ、サーガのエンディングにおいてジミーからキムに送るジェスチャーは、彼らがハワードを陥れたことを想起させる2丁拳銃の仕草でなければならない。自身がソウルというペルソナを生み出したことを引き受け、その上で罪を償うこと。死やペルソナの否定で罪を消し去ることなく、その存在と罪を引き受けること。ジミーと共に罪を犯したキムだけが、彼の真意を理解している。
自身の選択の末に、例え灰色の世界が待っていようとも、例えタバコの先に灯るほどの僅かな光しか見えずとも、全てを引き受けて生きていくこと。このサーガの最後に、ウォルターと対照的な形で示されるジミーの姿は、哀しくも美しい。
利己と利他をはじめとした様々な要因が絡み合い、それが各人物の行動にグラデーション状の色彩を帯びて立ち現れる。そのような悪の様相を仮定したとき、この悪を詳らかにするために必要なのは、なるべく多くのアスペクトを拾い集め、その複雑な色彩を再現する試みであろう。
この素晴らしいサーガに対する様々な論考が集積していくことを望む。この作品が持つ多様な奥行きは、ドラマが終わった後にこそ、様々な形で明らかにされるべきである。
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