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ヨルゴス・ランティモス『哀れなるものたち』

不幸な若い女性ベラは自ら命を絶つが、風変わりな天才外科医ゴッドウィン・バクスターによって自らの胎児の脳を移植され、奇跡的に蘇生する。「世界を自分の目で見たい」という強い欲望にかられた彼女は、放蕩者の弁護士ダンカンに誘われて大陸横断の旅に出る。大人の体を持ちながら新生児の目線で世界を見つめるベラは時代の偏見から解放され、平等や自由を知り、驚くべき成長を遂げていく。

賞レースを席巻中の話題作。オスカーの主演女優賞はリリー・グラッドストーンとエマストーンのどちらが獲るんだろう。寡黙な演技の前者と身振り含め多弁な演技の後者のどちらを賞に相応しいとみるかはもはや好みの問題だし、芥川賞よろしく二名同時受賞でも誰も文句言わないと思うくらい良い演技だった。

原作にみられた「アラスター・グレイが拾った手記を編集している」多層的な語りの構造は、ベラに内的焦点化された目線で統一された語り口に翻案され、かなりストーリーを掴みやすくなっている。基本的にはベラが世界に(その残酷さも含めて)遭遇し、自由と成長を経験するという話、のはず。

この作品を女性の自己実現の話としても読むことも可能だが、そこに固執し続けると結末や行動原理を含めて行き止まりにぶち当たる気がして微妙なモヤモヤ感が残る(間違いなく「男のバカさ/身勝手さ」みたいなことは語っているが。)この作品にはかなり危うい仕掛けみたいなものが張り巡らされていて、それが単純化した語りを煙に巻くような構造をもっている。

 ベラが性行為に走るのはその幼児性に伴う「良識」の欠落に根本原因があり、周囲の人間もベラの精神年齢と肉体的年齢のギャップを利用している。ベラという存在を創造したゴッドウィンも、ベラと最初に婚約したマックス・マッキャンドルスも、マーク・ラファロ演じる放蕩者のダンカンも、彼女を支配または利用しているという点においては共通している。そのような支配や利用から彼女を自立させるきっかけになるのは、船中で出会う貴婦人であり、彼女がベラに本を差し出すシーンなどは非常に勇気づけられるものがあった。この場面において、確かに女性はエンパワメントされている。

 しかしこの映画におけるベラの性に関する選択を取り上げ、その選択が彼女の意志に則り為されたものである、故にこの映画は女性をエンパワメントするものである、という解釈は単純すぎるのではないか。その自由意志がより大きな構造に従属している形をとっている時、それは自由意志と呼べるのか……?

 確かにベラは娼館で働くことを「実験として」自分で選んだ。しかし娼館で働き続けるという選択には金がなければ何もできないという社会構造が少なからず影響している。自分の身体をどう扱うかを自分が決めているから自由だ、という議論は「その自由につけこむのが権力である」ということを度外視してしまっているように思えて、危ないなと思った。ベラを性的に搾取したい立場の人間にとって、ベラが唱える理屈がよい方便になってしまうみたいな構造の難しさを痛感した。

 加えて、これをいったらもう身も蓋もないのだが、性の享楽的側面ばかりにスポットが当たって避妊や妊娠出産の概念が無きものとして扱われていている感じも、そりゃあそんな感じだったらこんな感じになるよね、と思ってしまった。

結末部において、ベラが生みの親である父親(あのめちゃくちゃ性格悪い将軍)の頭にヤギの脳を移植するくだりも、やってることエグすぎて「父親は百歩譲っても、なんの罪もないヤギは可哀想」という根本的な問題を感じるし、それ以外にモヤモヤするところはあった。というのも、ベラに突きつけられるのは「ベラとして生きるか/ヴィクトリアとして生きるか」といった、極度に単純化された二元論で、その必然性自体は疑わないんだ、みたいな、リベラルさの不徹底を感じた。こんな不気味な家も出て、ゴッドの影から離れた社会や世界にコミットする道は選ばないのか……?意外と常識に囚われてませんか……というね……。

結局のところ、ベラを利用することしか考えられない男性たちも、自由を獲得したかのように見えて箱庭の中から出られないベラ自身も、必ず自分以外の存在や構造に巻き取られてしまう哀れなるものたちである、といった感覚が一番観ていて感じたところに近いかもしれない。人間って何処まで行っても動物だよね、みたいなことも何となく浮かんでくる。

 ツッコミどころや危うい受容を引き寄せる性質が多々あるものの、そうした指摘の全てを野暮なものに変えてしまうほどの魅力がこの作品にある。それは衣装・音楽・美術といった諸要素により、ベラの見る世界がいかに鮮やかなものに映るかを表現し尽くしている点である。

この映画の結末には直感的に納得できなかった自分も、エンドクレジットの楽曲と画(ひいてはそこに映る美術の精巧さ)の素晴らしさに感動して、涙腺が緩んだ。映画における性描写が苦手な自分でも、彼女がそれを通して世界を知っていく過程には共感を覚えた。ベラが初めてリスボンの街を自分一人で歩いた時、彼女の履いていた衣服の黄色に、理由もわからず感動してしまった。理屈をこねる以前の直感的なレベルで、人の心を動かす力を持った映画であるからこそ、危うさと同時に震えるような痛快さを感じたし、こんな危うい作品が世界的に評価されている状況自体の突き抜け感を驚くべきものとして受け止めた。

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