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「銀の匙」で日本語の美しさを堪能する。

今まで読んできた小説の中で、一番表現が美しいと思ったのは、中勘助の「銀の匙」です。

この小説は日本文学の名作で、僕が憧れてやまない地元兵庫県のエリート学校「灘中学」の教材として使われたことでも有名です。灘中学・高校は今となっては東京の開成高校と肩を並べる日本屈指のエリート学校ですが、まだ「関西の進学校」程度の存在だったころ、ある国語教師が教材としてこの本を使いました。彼は一般の教科書は使わず、中学3年間をかけて「銀の匙」一冊を徹底して熟読するという前代未聞の授業を行ったのです。小説の中で凧揚げの場面が出てくれば、グラウンドでみんなで凧揚げをし、御菓子が出てくれば教師が買ってきて、みんなで食べながら読み進めたといいます。この授業を受けた生徒たちが卒業する年、灘高校は並み居る進学校を抑え、最多の東大合格者を出しました。

なぜこの授業が国語の成績を伸ばしたのか私には分かりませんが、物語の中の体験を自分のものとすることで、没入感が高まり、主人公の心情に深く迫ることができたのかもしれません。
テレビ番組の「高校生クイズ」で圧巻の知識量を披露する灘高校生を観ていた思春期の私にとって、このエピソードは衝撃的でした。自分がいま受けている国語の授業は、小説や詩、論説文から古文へと、題材がコロコロ変わります。片や彼らは一行一行を噛み締めるように読み込んでいくわけです。そりゃ灘中学・高校生に勝てるはずがないとひっくり返りました。ちなみにこの授業を行った橋本武先生(愛称:エチ先生)は1984年には教壇を降りているので、当の灘中生も今はこんな授業を受けているわけないのですが。

そんな灘への憧れから始まった「銀の匙」への興味でしたが、いざ読んでみると、はじまりの文章からこれは二つとない素晴らしい小説だと感じました。細やかな言葉の粒がこれでもかと敷き詰められていて、ここまで美しい日本語を読んだことがないと感動しました。この本の読書体験は格別で、柔らかでありながらじっくりと時間をかけて選び抜かれた言葉の数々に、ページをめくりながらずっと感嘆のため息をついていました。

「銀の匙」は、主人公を過保護なほどまでに愛する伯母さんとの思い出を回想するという、自伝的小説になっています。たとえばこんな一節。

ーー鯛は見た目が美しく、頭に七つ道具のあるのも、恵比寿様が抱へてるのも嬉しい。眼玉がうまい。うはつらはぽくぽくしながらしんは柔靱でいくら噛んでも噛みきれない。吐きだすと半透明の玉がかちりと皿に落ちる。歯の白いのもよい。

見るもの全てが新しく、面白がったり怖がったりしながら始終周りをキョロキョロ見回しているような、子供の頃の体験を丁寧に描き出しています。視覚から味覚、触覚、さらには聴覚までフルに使って、鯛を味わう体験を綴っています。

さらに、以下は小説の冒頭で出てくる、タイトルの「銀の匙」についての部分です。

ーーそのうちにひとつ珍しい形の銀の小匙のあることをかつて忘れたことはない。それはさしわたし五分ぐらゐの皿形の頭にわづかにそりをうつた短い柄がついてるので、分あつにできてるために柄の端を指でもつてみるとちよいと重いといふ感じがする。私はをりをり小箱のなかからそれをとりだし丁寧に曇りを拭つてあかず眺めてることがある。私がふとこの小さな匙をみつけたのは今からみればよほど旧い日のことであつた。

ここから幼年期の回想に入っていくのですが、匙一つとってもここまで丁寧に説明できるのだと感心してしまいます。スプーンといえばただのスプーンなわけで、こちらからすれば一々表現する技術も気もないわけですが、やはりこうやって書かれてみると、ふとこの匙が自分にとってもなにか特別なものであるかのように思えてくるのです。そして、なんとなく自分の指先にも匙のずしりとした感覚が伝わってきます。

少し長くなりましたが、銀の匙と私の出会いについて書かせていただきました。こういう言葉の素晴らしさを感じられる本は、やはり自分の読書人生においても節目のような存在だと思います。
たとえば「ハリー・ポッター」なんかは、小学生の自分には辞書のように分厚い本で、何かものすごく難しい呪文のような内容が書かれているのではないかと思っていたのですが、夏休みの時に学校の図書室で冗談のつもりで借りたところ、広大に広がっていく魔法世界に魅了されて見事に吸い込まれていきました。そして、小説ってそんなに難しくないんだと思い、背伸びして有川浩や東野圭吾を手に取るに至りました。中学生の頃には山本周五郎の「さぶ」を読み、時代小説の味わい深さや人情の素晴らしさに胸を暖かくしました。
面白い本はいくらでもあるのですが、やはりこういったその年代ごとに訪れる、「格別な読書体験」を適度に経験することで自分が今も小説を読み続けているのだろうと思います。

願わくば、自分が書いたものもそんな誰かにとっての「出会いの一冊」になり、言葉の世界の拡張を手伝うことができればと思う今日この頃です。とりあえず日本へ帰ったら挑戦しようかと思っています。最後までお読みいただきありがとうございました。

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