乳鳥

266
淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所念   柿本朝臣人麻呂

267
牟佐々婢波 木末求跡 足日木乃 山能佐都雄尓 相尓来鴨   志貴皇子

268
吾背子我 古家乃里之 明日香庭 乳鳥鳴成 嬬待不得而   長屋王

371
飫海乃 河原之乳鳥 汝鳴者 吾佐保河乃 所念國   門部王

266、267、268、371は『萬葉集』巻第三に修められている「乳母(うば)」を詠んだ歌である。

乳母は、夕浪千鳥・牟佐々婢・明日香庭乳鳥・河原之乳鳥と表記されている。

宮中では乳母のことを命婦とも言った。

267歌では命婦のことを「牟佐々婢」と表現している。牟の字は、ムと牛を組み合わせている。漢音では、牟は móu と発音され、ムで牛の鳴き声を表す。牛はミルクを出す。牟佐々婢とはムササビ(鼺鼠、鼯鼠)のことである。

佐の字は、次官や補佐役を表す。婢の字は召使い、端女(はしため)、雑仕女(ぞうしめ)などの下級の女官のこと。それゆえ、牟佐々婢とは、乳母の隠語である。宮中の命婦を暗喩している。鳥のように木から木へ飛び移ることから蝙蝠と同じように決して良い意味で用いられていない表現だと思われる。

四首の歌が修飾している命婦の出身地や、生まれや、仕えた宮廷を示しているのが淡海乃海・夕浪千鳥・明日香庭・飫海乃河原などの句である。そして、乳母の夫が誰であるかを示すのが、佐都雄・鴨の文字である。鴨のことは章を変えて述べる。

牟に目を加えて、眸と書くと、牛の大きな眼球を表す語となる。県犬養改め橘宿祢三千代は若い頃は容姿端麗な黒目がちの美しさで人々を魅了する命婦だったのだろうが。

この命婦すなわち県犬養三千代は、最初は三野王の妻になった。三野王とのなれそめは明らかではない。が、持統女帝の孫の文武天皇の命婦だったとすれば持統・文武・元明・元正・聖武と五代の天皇に近侍したことになる。三野王と別れて不比等の後妻になったいきさつも明らかではない。元明の皇子の文武(珂瑠)の乳母でもあり聖武(首)と父子二代の乳母でもあったことになる。(長屋王妃の吉備内親王は天智と天武の孫である。父が草壁皇太子であり母が元明天皇・兄が文武天皇・姉が元正天皇)

267歌の作者の志貴皇子は天智天皇の第七皇子である。持統天皇の兄弟であり元明女帝とも元明の同母の姉の長屋王の母の御名部皇女とも腹違いの姉弟となる。つまり、長屋王は母方で天智の孫であり、父方で天武の孫だった。だから、大津皇子や草壁皇子とは、母方ではいとこ同士であり、父方では大津や草壁の甥にあたる。その高貴性ゆえに長屋王家は滅ぼされたのである。志貴皇子は皇位に即けなかった皇子として『萬葉集』中に歌を残している。

371の作者の門部王は、長屋王邸跡出土の木簡の解読の結果、長屋王の兄弟とわかった。門部王に関する木簡は数篇出土した。もう一人の長屋王弟の鈴鹿王と違い長屋王邸や佐保宮で長屋王や大伴旅人らと行動を共にし、歌も作っていた。出雲守になった時に作った歌が371と読み取れる。母親が誰であるかは不明である。

鈴鹿王に関して『続日本紀』は、母親が誰であるか明らかにしていない。しかし、長屋王家の六人の皇統が殺された時に、他の長屋王の毘弟と違って、鈴鹿王だけ名を挙げて罪に問わないとしているので、母親は、藤原氷上娘の娘の但馬皇女に違いないと筆者は考えている。

但馬皇女は髙市皇子の妻であったにもかかわらず穂積親王と浮き名を流していることが『萬葉集』からわかっている。現代ならDNA鑑定で兄弟判定は否定される可能性のある恋をしている。そのためか『続日本紀』には但馬皇女の子女の名は載らないし、鈴鹿王の母親の名も載らない。母親が藤原鎌足の娘で、不比等の姉の一人が生んだ孫という理由がなければ、鈴鹿王のことを『続日本紀』が特記するはずもなく、また、のちに、知太政官事に就かせなかっただろう。門部王に関して鈴鹿王や長屋王の兄弟とも書かずにいた『続日本紀』の作為に気を付けなければならない。

その、長屋王と門部王の兄弟二人が、チドリのことを乳鳥と書いている。(268と371)

さらに、人麻呂は、「淡海乃海夕浪千鳥」と書き、門部王は、「飫海乃河原之乳鳥」と地域を限定している。

日本列島内では、琵琶湖のことを淡海とか近江と言った。そして、古代の出雲国で入海を形成していた、いまの宍道湖を飫海と言った。しかし、266、371の歌の中の淡海と飫海は、中国大陸の東の黄海の奥の山東半島の奥の渤海との掛詞なのである。

驚くなかれ、266と371歌の海は日本列島の湖や入海ではなく、中国の東北部の黄海のさらに奥の浅い海(平均水深26m)の渤海(ポー海)と渤海郡との掛詞なのである。

266は、「淡海乃海」と、海の文字が二つ重なるうえ、「夕浪」の二文字で、渤海の奥の挹婁の地を想起させようとしていることからわかる。そして、371も、飫の漢音が挹婁のヤマト風の発音のユに近い yú であり、河原の河の漢音は靺鞨族の鞨の漢音と同じく hé であることからわかる。

696年に建国し、はじめ振とか震と称し、727年に日本に漂着して来朝した渤海は、高句麗遺民と靺鞨族が主要な構成部族だった。

高句麗の故地は、かつて東胡とか烏桓・挹婁・粛慎・靺鞨・勿吉の地と呼ばれることもあった。その地が唐によって、渤海郡とされ、最終的に渤海国を名乗った。だが、最初は振国とか震国とか称していたのである。

安息国と漢字化されたパルティアの国名を安宿・飛鳥・明日香と表記したことと、唐が滅んでも、日本では唐と書いてカラと発音し、宋や元や明の時代になっても、中国のことを唐(カラ)と言ったことを考えると、地名の記憶はなかなか消えないことがわかる。

つまり、古い時代の地名を言い続けていた人々が奈良時代にいて、新興国渤海のことを、鳥桓・挹婁・靺鞨・勿吉の地と言ったのであろうことは容易に想像できるのである。

668年に唐によって高句麗が滅ぼされた。

日本に流入した東湖を含んだ高句麗難民の数は夥しいものだったようである。

『続日本紀』の元正天皇2年(716年)に、次のような条文がある。

――(五月)辛卯、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七国の高句麗人千七百九十九人を以て、武蔵国に遷し、高麗郡を置く。――

すでに711年(和同4年)に、上野国では、多胡郡が建郡されていたから、668年の高句麗滅亡以来、約50年の間に、遷民は増え既述の七ヶ国では収容しきれなくなり、新たに高句麗人だけを集めて、武蔵国に、新しい郡を建てたことを示す条文なのではないだろうか。

遷民の遷と千鳥の千の漢音は同じである。
 千 qiān
 遷 qiān
ピンインが同じなので、遷民を千鳥と書き換えたのが人麻呂の266歌である。

高句麗の地は東胡の地と重なっていたから、高句麗の名を出すのを憚って、古への挹婁の地名を捩って「夕浪千鳥」と書いたのだ。

夕浪(ユウナミ)はユウロウとも読めるからだ。

高句麗を挹婁と書かずに、夕浪と書く。そして「汝」の文字で女性を暗示する。このセンスがヤマトウタのヤマトウタたる所以である。

ただ、人麻呂の266歌だけでは、挹婁からの遷民は「千鳥」と千の字を用いて数の多さや部族の多さを表しているものの、特定の人には言及していない。

だが、挹婁に住んでいた靺鞨系の乳母であることを特定したり補足しているのが志貴皇子の歌なのである。

牟佐々婢の解釈は前述した。牟佐々婢につづく「木末求跡」の求跡の意味は不明だが、木末は東の靺鞨を意味すると考えられる。五行思想では木は東に相当する、木末の末の漢音は靺鞨の靺と同じだ。
 末 mò
 靺 mò
東の靺鞨すなわち「木末」とは、中国大陸とは海を隔てた日出づる東の国、すなわち、日本に住むようになった靺鞨族、あるいは、日本列島の中で靺鞨族が定住していた土地のことだと思える。

三千代の父の名を県犬養宿禰東人と言った。『新撰姓氏録』左京皇別や『尊卑分脈』に書かれている。平安時代になってから、三千代が三野王(美奴王)との間に生んだ橘諸兄の外祖父の名を記す必要にせまられた時に考案されたのが東人という名前だろう。

東は木と春と竜で象徴され、西は金と秋と虎で、南は火と夏と朱雀で、北は水と冬と玄武で、中央の中華は土と花で象徴されるのが中国の五行思想である。東夷・南蛮・西戎・北狄も中原の花園(中華)を荒らす民族を蔑んだ中華思想がつくり出した表現である。

このことを考えると、「牟佐々婢波木末求跡」の文中の木は東人とか春宮とか竜王とかに言い変えられることを念頭におかなければならない。

春宮と東宮は同意語であり、潜竜の王子とは、潜み隠れている王子、つまり、皇太子や天子の位を狙っている王子のことを言う。

三千代が三野王(美奴王ほか弥努王・美弩王・美努王とも)の妻となったなれそめはわからないが、三野王生存中に不比等の後妻となって、安宿媛(のちの光明皇后)を宿していたとき、不比等の娘として入内させた藤原宮子から生まれる赤児の乳母となることについて、不比等と三千代がさまざまな思惑をめぐらせたことは想像に難くない。藤原宮子は出産直後に赤児(首皇子、のちの聖武)から引き離され幽閉されてしまったからである。

藤原宮子は697年(文武元年)に赤児を出産したのち、39年間生みの子から引き離された。文武夫人を改めて、皇太夫人とか大御祖(おおみおや)とか太皇大后と称せられたが、聖武と対面できたのは、三千代没後で藤原宇合ら、藤原四兄弟が天然痘で相次いで死亡したあとの天平9年(737年)12月27日のことであった。

しかも、対面場所は皇后宮とある。光明皇后も一緒に面会したことになる。この時期の皇后宮は旧藤原不比等邸ではなく、最近の木簡解読によれば、旧長屋王邸説も生まれている。

長屋王家の資産は、長屋王らが弑逆されたあと、全員分が没官(重罪を犯した者の父子・家人・資財・封戸・田などを朝廷が取り上げること。人間を没官とした場合は奴婢とする)となった。つまり、藤橘両氏は、長屋王家の六人を亡きものにすれば長屋王が髙市皇子から受け継いでいた封戸(相模国一国に相当すると思われる)や王邸や経営していた佐保宮・香具山宮や山背国の菜園などの大部分を手に入れたことることができると計算したのである(4456歌によりわかる)。4456歌は出家した三千代と息子の葛城王の間で班田収授の年(天平元年)に交わされた歌に仕立てて『萬葉集』の編者が載せた歌。そのようにして手に入れた長屋王邸は、739年の時点では、光明皇后が使っていた皇后宮となったものと考えられる。

三千代は天平5年(733年)に没している。三千代が没し、四兄弟が没し、橘佐為が没したあと、聖武天皇が宮中ではなく、皇后宮に出向いて実の母と生まれて始めての面会をしたとは、まことに不自然なことである。

生後39年間、母親に会えなかった。ようやく面会できた時は、傍に光明皇后と僧の玄昉が居た。(玄昉が宮子の病気を治癒させたと録されている。)

不比等と三千代の策謀により精神病人にされ、39年間隔離されたものの、聖武天皇と光明皇后の出産時に立ち会ったはずのない僧によって治癒したと記す『続日本紀』の条文を誰が信じることができようか。

だが、宮中で、間諜として日本に渡り、身分を隠して出世した人物の本当の目的が、日本列島内に亡命王朝を創ることだったとすれば話は別である。

言いかえれば、隋唐が成立し、隋も唐も、良港を欲し、東方征服を始めようとして時に、高句麗や百済が推古朝以来、日本に接近してきた目的は、倭の大王の援助を得ることと、倭に、亡命王朝を建てることだったとしたら、推古朝の厩戸王家の滅亡や、皇極朝の蘇我本宗家の滅亡や、天武天皇の崩御後に蘇我系皇子殺しが続いたことは、たやすく説明がつく。

天皇家の中に、間諜を潜り込ませて、皇子殺しの集団につくり上げればよかったのである。

間諜集団の主な仕事は、高句麗や百済の血を天皇家に注ぎ込むことである。

つまり、間諜に皇子殺しを重ねさせ蘇我系皇統を皆殺しにしたあと、亡命王朝の君主を据えればよいだけのことである。

それを実行し成功したのが不比等と三千代である。

志貴皇子は、その事を見抜いていたので、267歌で
――牟佐々婢波 木末求跡 足日木乃 山能佐都雄尓 相尓来鴨――
と乳母が東の日本列島に靺鞨の発跡(興ること、出世すること)を求めて、京師(都)づくりをしている仲間の男(藤原不比等と名を換えて、持統の朝廷で頭角を現しはじめた官人に化けた間諜)と一緒になるために挹婁(夕浪)からやってきた――と詠んだのである。

木末・足日木と木の字を二回繰り返している。それは、木の字に特別な意味があると示唆しているからである。そして、アシヒキはヤマに懸るから、東の日本列島にあるヤマトの王朝の意味と解釈できる。

牟佐々婢は乳母である。梅花歌の烏梅も乳母と烏桓を掛詞にしていた。

牟佐々婢が乳母であることを気づかせようとして、乳鳥と書いたのが長屋王と門部王兄弟である。

東シナ海の北の黄海のさらに北の渤海を淡海乃海とか飫海と書いている歌が人麻呂と門部王と天智の皇后の倭姫王の歌である。倭姫王は、中臣鎌足と天智に殺された古人大兄皇子の女(むすめ)であり、天智の殯宮で詠んだとされる大后御歌として次のように書いている。

153
鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来船 邊附而 榜来船 奥津加伊 痛勿波祢曽 邊津加伊 痛莫波祢曽 若草乃 嬬之 念鳥立

従来の『萬葉集』中の歌の解釈では「鯨魚取」は近江(琵琶湖)に懸かる枕詞(まくらことば)としているが、これは間違いである。琵琶湖に鯨はいない。いるはずがない。だが、黄海の奥の渤海(ポー海)は、水深が浅いために、鯨が迷い込んだら浅瀬に嵌まって泳げなくなってしまう。だから、鯨がよく捕まった。鯨は豊富な食料となった(cf.371歌)。

飫の文字には、食べ飽きるの意がある。鯨が食べ飽きるほど捕れたのは浅い海で、水底が淡く見えたからである。

淡海乃海に修飾語として「鯨魚取」とつけて意味を限定すれば、この淡海は、日本列島内での琵琶湖や浜名湖の別名ではなく、挹婁・靺鞨や高句麗の沿岸の渤海(ポー海)の浅い海の意味となることに後代の萬葉学者は気付かなかったのだ。

貴重な食料をもたらしてくれる渤海、すなわち、ポー海の奥の渤海郡から来た乳母のことを詠んだのが、266、268、371及び153歌なのである。

このことがわかると、153歌の「奥放而」と266歌の「夕浪」の意味がわかるようになる。

「夕浪」は挹婁であると前述した。この夕浪を一文字であらわしたものが「奥」なのである。

奥の漢音は yú と áo である。

yú が「挹」ばかりでなく「夕」の字に変わり、áo が「奥」ばかりでなく、淡海の「淡(あわい)」というヤマトコトバにも変わったのは淡の漢音が dàn と yǎn であり、ヤマトコトバではアハ(アフ)と発音されることにも関係がある。(後述)

153歌で、「奥放而」の文字を「おきさけて」と訓んだのは間違いである。なぜならば、同じ倭姫王皇后の歌の中に「振放見者」という文言があるからである。

147
天原 振放見者 大王乃 御壽者長久 天足有

147歌中の「振放見者」と153歌の「奥放而」は、渤海国の旧名の振(震)国が放った間諜のことである。

「見」の字と「間」の字の漢音を調べればわかる。
 間 jiān jiàn
 見 jiān xiàn

漢音で読めば、「奥放而」は「挹婁が放った汝(お前)」の意となり、「振放見者」は、「振国が放った集団のために用意された県(あがた)に住む間諜」と読める。「汝」の字はサンズイに女である。女性を寓意している。

「振放見者」の「見」の字と、「県犬養」とか「倭の五県(あがた)」の「県・縣」の字の漢音も、また、xiànと発音を同じくする。
 見 jiān xiàn
 県 xián xiàn

「見」の字は「県」の字の代わりなのである。

「振放見者」が渤海の旧称の振(震)から放たれたスパイ・間諜・忍びの者であり、乳母と関係があることは項を改めて説明する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?