武都紀多知

梅花歌卅二首の初句の「武都紀多知」とは、陰暦の正月を意味する睦月(ムツキ)と、数字の六を掛詞にして「六ヶ月経った」と詠んだ歌である。

武都紀(ムツキ)が正月を意味するのならば、天平二年正月は、光明子が皇后となってから五ヵ月なので六ヶ月のムツキとは掛詞にはならない。それに陰暦とはいえ、正月には、まだ梅の花は花弁(ハナビラ)を舞い散らすほど咲きはしない。

だが、題詞には「于時初春令月(吁吁(あぁ―感嘆)、時は天平となって初めての春の二月)」とも読めるように書かれている。令月とは二月のことである。長屋王夫妻と四人の皇子達の一周忌にあたる2月12日ならどうだろう。梅の花は盛りを過ぎて、はなびらが風に舞う頃ではないだろうか。

長屋王は佐保宮を所有し管轄していた。佐保宮には高く聳える楼閣があった。そこでは、新羅からの遣使を交えた宴会が開かれることもあった。そのような会に大伴旅人も招かれていた。「五言 初春宴に侍す」という「作寳楼」でつくった漢詩が『懐風藻』に載っていることによってわかっている。

旅人の父の大伴宿祢安麻呂は、別称が佐保大納言だった。式部卿となったあとは、太宰帥と大納言を兼務した。

714年に大納言兼大将軍正三位で薨じたのだが、元明天皇は彼の死を悼んで従二位を追贈している。安麻呂の兄の大伴宿祢御行も、長屋王の父の高市皇子と行動を共にしたらしく高市大卿とも呼ばれた。彼も文武朝の大納言であったが、701年に薨去した時に正広弐右大臣を追贈されている。

このように、大伴一族は壬申の乱に天武天皇が勝利したあと、合閣の一員として天武→高市皇子→長屋王→膳夫王と続く長屋王家を軍事、外交および交易活動で支えていた。だから、藤原氏は、その軍事力と影響力を恐れ、口実を設けて旅人と大伴氏配下の兵(つわもの)を筑紫の大宰府に釘付けしておいてその間に、長屋王家を滅ぼしたのである。

藤原氏が用いた策略は隼人の反乱と渤海からの使節の漂着を口実にするものだった。

渤海は古への烏桓(烏丸)の地に新しく興った国で、唐の冊封国となったのだが国名を振と称したり震と書いたりしたこともある。唐の東北の渤海郡に因んで、渤海と称するようになってから十余年しか経っていなかった。

668年に滅んだ高句麗の遺民の大祚栄が、奚や契丹族が多く住んでいた唐の営州で、靺鞨族を中心に旗上げしたとも言われている。大祚栄に因んだためか、王名を大氏と称した。

神亀4年(727年) 九月に渤海使が来着した。

―― 庚寅(二十一日)渤海郡王の使の首領高斉徳ら八人、来りて出羽国に着く。使いを遺して存問ひ、兼ねて時服を賜ふ。 ――『続日本紀』

この神亀4年(727年)には九月が二ヵ月間あった。閏月を作ったからだ。

―― 閏九月丁卯(二十九日)皇子誕生す。――『続日本紀』

不思議なことに、閏九月の条文は―― 皇子誕生焉 ――の五文字だけである。

そして同年11月己亥(2日)、この皇子を皇太子とする詔がでて、二週間も経たないのに御披露目された。

―― 辛亥(十四日)、大納言従二位多治比池守、百官の史生己上を引ゐて、皇太子を太政大臣の第に拝む。 ――『続日本紀』

―― 戊午(二十一日)、従三位藤原夫人に食封一千戸を賜ふ。――『続日本紀』

太政大臣の第とは光明子の父の故藤原不比等の邸のことである。

父親の不比等は七年前に亡くなっている。不比等の後妻で、光明子(安宿媛)の生母の県犬養橘三千代は存命だった。贈太政大臣邸に住んでいたのだろうか。

不比等は右大臣で薨じたにもかかわらず、元正女帝は、贈左大臣ではなく、贈太政大臣と、特進させ、位階も従二位とした。不思議・不可思議・摩訶不思議だが、『続日本紀』とは、藤原氏に阿った菅野朝臣真道が、淡海真人三船の編纂した「原続日本紀」に、手を加えた歴史書であることを常に念頭に置いて読まねばならない。淡海真人三船編纂時に閏九月条があったかどうか疑わしいのである。

だから、閏九月丁卯の条文は、菅野真道の再編纂時に加筆されたものかも知れないのである。皇太子の名前が不明であるし、不比等の外孫であるというだけの理由で、生後34日で皇太子になったという嘘かまことか判らないような条文なのだから。

この皇太子は、1年後に1才1ヵ月で夭折したと記されているが、『続日本紀』は、この間の長屋王や大伴旅人の動静に関しては一切口を噤んでいる。

そして、明けて神亀6年の2月辛末(10日)、鈴鹿関・不破関・愛発関を固守させ、三関の出入りを禁じたあと、式部卿になっていた藤原宇合は、創設したばかりの中衛府を含む六衛の近衛兵を将て、長屋王邸を取り囲んだ。そして皇統六名が自尽するまで、二日間兵を動かさなかった。大伴旅人を筑紫に遠ざけてあったので、六衛府を掌管した藤原四兄弟と県犬養橘三千代と、三千代所生の男女にはもう怖いものはなかった。

つまり、大伴氏、紀氏、佐伯氏らが平城京を留守にしていた間に、単なる夫人の位にすぎなかった光明子(安宿媛)を梅花歌卅二首が作られた6ヶ月前の8月に立后させてしまったのである。そして、神亀は天平と改元された。

妃と呼ばれる身分でもない臣下の娘が、妃の位を飛び越えて皇后の位の昇ったのが「武都紀」前の出来事だったのである。

ヒィ フー ミー ヨー イツ ムー ナナ ヤー コノ トー と数えた当時のムーを「武」と書き6ヶ月の月を「都紀」と書いて正月の睦月と掛詞にして「6ヵ月も経ってしまった」と嘆いたのが「武都紀多知」なのである。

『萬葉集』全巻に共通して言えることは、題詞は漢文で解釈できるが本文のヤマトウタの中で使われている用語には、倭語ばかりではなく、梵語(パーリ語、サンスクリット語など)・ギリシア語・ラテン語・ペルシァ語・トルコ語・アラビア語・マレー語などの単語が外来語として使われていたのでこれらの単語の意味を知らない人には歌の原意は通じないように工夫されていた。

歌の中の外来語は、ユーラシア大陸を東西に、南北に交易したソグド商人や、船団を組んでアラビアからインド、ヴェトナム、中国と航海していたタジク(アラビア系)商人の言語が、地中海以東・中国大陸の各交易拠点で、リンガ・フランカ(国際間共通語)となって実際に使われていたものである。

『萬葉集』の編纂に携わった大伴氏は6世紀には日本列島や大陸北東部に到達していた交易集団と接触していたばかりでなく、朝鮮半島の南部の割譲にまで関与していたので、他の氏族よりはやく、大陸で使われていた単語を多く取り入れることが可能だったと思われる。

さらに言えば、ヤマトウタとは、イランーペルシァ系のソグド人が、ソグド語の中に取り込んだ印欧語やセム語やトルコ語を、七五調の韻律で漢字書きをしたものかも知れないのである。

それは、『古事記』序文を読めばわかる。

『古事記』は漢字で書かれているが漢文ではない。

『古事記』のもととなった国記や天皇記の編纂に着手したのは『日本書紀』によれば蘇我馬子と厩戸皇子(聖徳太子)である。

「国記」や「天皇記」は、はじめは、蘇我氏の言語、すなわちソグド語で書かれていたと筆者は考えている。

645年の乙巳の変(大化の改新)の時の蘇我邸炎上の折に、「国記」を火の中から取り出し、中大兄皇子に献上してのは、船恵尺である。船恵尺の父(あるいは祖父 すなわち 菅野朝臣真道の遠祖)の王辰爾は、欽明朝・敏達朝の人で鳥の足跡にしか見えないような高句麗経由の表疏(ふみ)を読み解いた人物である。一族は、船で運ばれてきた国際便の貨物(船の賦)を記録する仕事に携わってしたらしい。

彼等が「船の賦」を録したと『日本書紀』が書くのは、漢字以外の文字を読む能力があったからだ。船恵尺がその能力を買われて「天皇記」や「国記」の編纂の手伝いを蘇我邸で行っていたのだとしたら『古事記』序文が特筆している稗田阿禮が誦習した文章は、ソグド語としか考えられないのである。

言い換えれば、『古事記』が撰上された712年より30年前の天武10年(682年)に、天武天皇は中大兄皇子に献上された「国記」を、のちに稗田阿禮と漢字表記された人物に読ませた。書かれていた文字についての記述はない。しかし中世ペルシア文字(パフラヴィー)かソグド文字か梵字、漢字以外は知られていない時代である。

読み取って内容を理解した阿禮は、その内容を今度は、天武天皇や、高市皇子らの前で発表した。天武の宮廷には、大伴氏や太安萬侶のような耳で聴き取った音を日本語に訳して説明することのできる能力(ソグド語を聴き取る能力)があった波斯人の母子も生存していたはずである。(654年に家族で漂着。父は帰国したが子供が生まれたので母と子は残った。天武10年には稗田阿禮と同じく28才)

太朝臣安萬侶は、元明女帝に712年(和銅5年)に上表した『古事記』の序文に、この時のありさまを次のように書いている。

――時に舎人ありき。姓は稗田、名は阿禮、年は是れ廿八。人と為り聰明にして、目に度れば口に誦み、耳に拂るれば心に勒しき。即ち、阿禮に勅語して帝皇日継及び先代舊辤を 誦み習はしめたまひき。然れども、運移り世異りて、未だ其の事を行ひたまはざりき。
…中略…
焉に、舊辭の誤り忤へるを惜しみ、先紀の謬り錯れるを正さむとして、和銅四年九月十八日を以ちて、臣安萬侶に詔りして、稗田阿禮の誦む所の勅語の舊辭を撰録して献上せしむといへれば、謹みて詔旨の随に、子細に採り拾ひぬ。――

言うまでもなく、上の文章は漢文の訓み下しである。

『古事記』 の序文はまだ続く。

『古事記』は江戸時代中期に、本居宣長(1730~1801)によって注目されるまで、あまり関心は払われなかった。

すでに蘭学研究が行われていたから、本居宣長もローマ字、アラビア文字、梵字については聞き知っていたかも知れないが、6世紀の終わりから7世紀半ばに、蘇我氏が修史編纂を思いたって書かれた文字が、ソグド文字や、ソグド語の音義を漢字で音写表記したものであったなどは思いもしなかっただろう。

そして、現代でも、20世紀の終わり近くになって、ソグド文字が読み解かれるまでは、ソグド人がシルクロード一帯に文字(手紙、石碑、墓誌など)を残したことを知る人は少ない。

だが、現実問題として、日本列島に於いて、712年に『古事記』が完成し、序文の中で太安萬侶は、天武天皇の時代に漢字化された古い書き方は、音を連ねたものが多かったので短く書き改めたものもあると述べている。

――然れども、上古の時、言意並びに朴にして、文を敷き句を構ふこと、字に於きて即ち難し。已に訓に因りて述べたるは、詞心に逮ばず。全く音を以ちて連ねたるは、事の趣更に長し。是を以ちて今、或は一句の中に、音訓を交いて用ゐ、或は一事の内に、全く訓を以ちて録しぬ。 …後略…  ――

魏晋南北朝から、隋、唐にかけて中国にすんだソグド人は、ソグド文字と漢字を習得したので、その能力を買われ交易ばかりでなく外交官として遣わされることが多かった。

また唐代の酒場には胡妃が居て、その美しさや踊りの見事さを漢詩に詠まれていることからも知られるように、権力者は胡人の美しい女性を何とかして手に入れ、手元に置くことを夢みた。

唐以前では、北魏や、のちの東魏、西魏、北斉、北周にもソグド人が通商し、突厥はソグド人(胡人)と共に行動していた。

日本がまだ倭と呼ばれていた時代に、大伴狭手彦は高句麗を攻め、財宝と、高句麗に捕らわれていた美女を連れ帰り、蘇我稲目に献上した話もある。

だが、大伴金村、大伴狭手彦、大伴長徳、大伴御行、大伴安麻呂、大伴旅人、大伴家持と、大連・右大臣・大納言・中納言を出した古代の名門貴族の凋落は、藤原不比等の出現により始まった。

大伴氏は壬申の乱後は、天武天皇の長子の髙市皇子に仕え、高市皇子亡きあとは、高市皇子の長子の長屋王や長屋王の弟の門部王らに近かった。たが長屋王家が滅ぼされたので仕えるべき皇統がいなくなってしまった。しかも、中国に安禄山、史思明の乱が起こった。そして、ソグド・突厥系の安史が敗北した。

『萬葉集』は「安史の乱」の直後に終わる。

『萬葉集』が繙かれたのは平安時代になってから、すなわち「安史の乱」から200年近く経ってからである。

だが、梅花歌卅二首中の最初の歌の初句の「武都紀多知」が容貌だけはソグド人に似てはいるがソグド人ではない橘三千代(県犬養改め)の娘(安宿媛と呼ばれた名前)の立后から6ヶ月目の令月(2月)を意味しているとは誰も指摘しなかったようである。

令月とは2月の異名なのに、そのことに思い至らなかったのは梅花歌卅二首の題詞が藤原氏の目に触れることを予想して、天平二年正月十三日とカムフラージュしたからである。

『萬葉集』全20巻4500余首が、どのような過程を経て纏められたか明らかではないが、藤原氏が権勢を誇っていた時代なのに藤原諸氏が作った歌が極端に少ない。

この事実は『萬葉集』全体が藤原氏へのあてつけとして纏められたからだろう。そして、内大臣や宇合の名で作られた歌が存在する理由は王朝史の転換点を表すものとして注目すべき事として必要不可欠な歌だっただからであろう。もし、そうであれば、内大臣藤原卿とか藤原朝臣宇合と日本の王朝史を変えた人物の名を出したのは本当に彼等が作った歌ではなく、彼等の名を出すことこそが重要だと考えたゆえの作歌者名の記載だと思われる。

さきに、梅や米は多くの実をつけるので多産を意味すると述べた。

『萬葉集』の最後の歌が作られた年は759年正月であるが、この時点で、光明皇后が産んだ子供は、1才1ヶ月で夭折した皇太子と、のちに孝謙(重祚して称徳)天皇となった内親王の二人だけである。

内親王でありながら738年正月に立太子したのは前例のない出来事だったが、孝謙女帝に子供は生まれなかった。

それゆえ、「烏梅」とは光明皇后の母で、孝謙天皇の祖母の県犬養改め橘宿祢三千代を意味したと考えられる。

三千代は、はじめは、敏達天皇の裔(孫または曾孫)と称した三野(美濃・弥努・美弩・美奴とも)王との間に、葛城王、佐為王、牟漏女王をもうけ、のちに、藤原不比等との間に光明子(安宿媛)・多比能・吉日(多比能と同一人物説もあり)を産んだ。

この事実により実をたくさんつける「梅」は、光明皇后の母親で、文武天皇の時代から乳母(命婦)として、藤原不比等とともに、後宮を思いのままに動かした県犬養(橘)三千代を暗喩していると考えられる。

乳母(ウバ)と烏梅(ウバイ)の音義を重ねたと思われるのである。

三千代と断定できる理由は、ほかにもある。

県犬養という氏族名である。犬は多産で容易に仔犬を産むので現代でも「犬の日」を安産祈願の日としている。

中国の五行思想を受け継ぎ日本でも、東西南北は、青・白・朱・黒で表され、東は青竜・西は白虎・南は朱雀・北は玄武で表象された。

北の玄武の玄とは黒を意味する。

東夷・西戎・南蛮・北犾という言い方もあった。

このことから、県犬養の犬は、北犾の犾にも相当し、玄武は、烏の黒に相当する。

つまり、梅花歌の中で何度も繰り返されている「烏梅」とは、県犬養の「犬」で北犾と呼ばれた烏丸(烏桓)と言われた北方から来た三千代を表しているのである。

701年生まれの聖武天皇と光明皇后が齢30になろうとしていたが、周囲の策謀がなければ臣下の夫人を皇后に立后することはできない。

筑紫に居て、不比等と三千代の娘が皇后になったという知らせを受けた時、大伴旅人らは、光明子(安宿媛)立后の陰で県犬養三千代が暗躍したことを覚ったのである。

『続日本紀』で聖武天皇紀は巻第九の途中から始まっていることに疑問をもっている人は少ない。そして元服しかしていないのに、あたかも立太子式に臨んだように解釈させた不思議さを指摘する人を知らない。

文武・元明・元正の各天皇紀は、巻頭から各天皇紀が始まるのに、聖武天皇紀が巻第九の元正女帝紀に続けて書かれているのは聖武(当時は首皇子)が立太子式を経ていない皇子だったからだろう。つまり、724年に元正女帝が譲位した体裁に書き直したのは後年の改竄によるのもではないかと考えられる。筆者は光明子が立后した時に首皇子が即位したのではないかと疑っている。巻の途中から聖武紀に変わっている理由は、他に考えられないからだ。

『続日本紀』がおおかた完成した体裁となってから聖武紀を加えたから、聖武紀は巻第九の途中から始まっているのではないかと疑っているのである。

すでに巻号をつけて著されている残り全巻の巻号を改めることはできないので、巻第九だけを書き換えたとしか考えようがない。藤原不比等は養老4年(720年)の死の年まで『日本書紀』を改竄し続けた。不比等が天児屋(根)命の功績をことさら強調して、あたかも藤原氏の遠祖が神代の昔から畿内王朝とともにあったと思わせた事実を知っていた大伴氏は、藤原氏が『日本書紀』を正統な王朝史と主張するなら、ヤマトウタを使って長屋王を滅ぼした藤原氏と橘氏(県犬養氏)のことを書き残そうと決意したのであろう。

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