天原振放見者

147
天原 振放見者 大王乃 御壽者長久 天足有

上は題詞に、天皇聖躬不豫之時太后奉御歌一首と書かれている。

天皇とは、中大兄皇子改め天智天皇のことであり、大后とは、天智天皇の皇后となった古人大兄皇子の女王(むすめ)の倭姫王のことである。645年の乙已の変のあと、『日本書紀』は蘇我馬子の孫の古人大兄皇子も謀反をはかったかどにより、中大兄皇子に殺されたと記す。だが『日本書紀』は、この時、背後で中大兄を操っていた中臣鎌足には言及していない。

天智の崩御は、一説によれば、山背の地で行方不明になり、遺体は見つからなかったそうである。

不豫とは「天子の病気」を言う言葉だが、文字通りに読めば「象なし」「象なしにてたのしめぬ」の意とも読める。


倭姫王は蘇我氏が次期天皇として期待していた父親の古人大兄を殺し、大伯父の蘇我蝦夷を自殺させ、父のいとこの蘇我入鹿を宮中で殺した中大兄の皇后となった。天智(中大兄)の死に際して数首の歌を残した(ように『萬葉集』には書かれている147、148、149、153)倭姫王(皇后・太后とも)の胸中はいかばかりだったであろうか。

倭姫王には子供が生まれなかった。蘇我本宗家の血脈を残すことを一番の目的として娶られた政略結婚のはずなのだが、立后三年ののち天智は崩じた。その倭姫王の歌の中の一首が147歌である。

147歌は、「天原振放見者」と綴る。倭皇后(倭姫王・大后生没年不詳)は、天智の死の背後に、のちに振とか震と名乗る国からのスパイがいたことを感じとっていたのである。

『萬葉集』では、147歌に限らず、「振放見者」の前に書かれている「天原」の二文字が数々の皇子殺しを行った藤原氏という氏族名の謂れや出自の謎を解く鍵である。

特定の文言の前に理解し難い修飾語が、きまり文句のように繰り返されることがある。昔の人は、そのような語類を枕詞と名付けたが、枕詞の持つ意味について歌の解説者は調べることを怠ってきた。そればかりでなく誤った解釈にもとづいて歌枕なる地名用語まで作り出してきた。

しかし、前述した「鯨魚取」でわかったように、枕詞と名付けられた単語(語句)はあとに続く意味を限定しているので、限定詞と考えるべきである(日本列島で淡海と呼ばれた近つ淡海(琵琶湖)でも遠つ淡海(浜名湖)でもなく、鯨漁のできる渤海(湾)と呼ばれている黄海の奥の海の意と限定したように)。

限定詞の典型的な例を、319歌の甲斐に懸かる(別項になってしまうが)「奈麻余美乃」の文言で例示することができる。

いつの頃からかわからないが、「振放見者」は「ふりかえ見れば」と訓まれ、枕詞として「天原」がつけられると説明されてきた。「天原」は「あまのはら」と訓まれ、振り返って空を仰ぐ動作の表現と解釈されてきた。

この解釈は間違いである。振放見者とは「振(震)国が放った間者(隠密・スパイ・間諜・忍びの物)」の意味なのだから。

「天原」の「天」は、天児屋(根)命という遠祖を創作した中臣集団と、中臣から藤原に名乗りを変えた藤原一族の前身(中臣)が「閹人(アマ)の集団」だったことによる。「天原」の「原」は藤原氏を表す「原」である。

中臣氏と藤原氏は遠祖を天児屋(根)命としているが、天児屋とは、ハレムのことである。宮中の奥処や京域に特別な空間を用意し、その区切られた場所に采女(うねめ)と呼ばれた側女を集め、側女から生れた子女に、乳を飲ませるなどの育児をした特別な屋舎が天児屋である。

この屋舎へは、普通の男性は出入りできなかった。大王(天皇)以外は采女に近寄ることを禁じられていたからだ。

ただ、アマと呼ばれた閹人だけは、男性の機能を削がれていたので例外だった。

中国の宮中では、そのような禁中の門番や寝台の番人の役も与えられたいた閹人(アマ)のことを中官とか宦官と言った。

この中官と宦官の文字を使って倭国で集団名としたのが、中臣と呼ばれた集団である。

だから、中臣には烏賊津使主とか、中臣御食子大連とか体の特徴で言い表された人物がいた。

烏賊はイカと訓む。イカは筒形の袋状の空洞の体をしている。また御食子の食とは、日食、月食という表現があるように、一部が欠けていることである。これらは、男性の機能としての必要部分が欠けている特徴を表す名前である。

中臣御食子大連は中臣鎌子の父とされ、中臣鎌子と中臣鎌足は同一人物と考えられている。通称は「カマ」だったはずである(後述)。カマと呼ばれた通称に鎌の字を当てたのである。

のちになって、鎌足の曽孫と称した藤原朝臣仲麻呂は、御食子の文字を嫌って『大織冠伝』では美気祜と改めている。鎌足の呼称の一つの中郎も、中郎ではなく、仲郎と書き換えている。これも同じ理由によるものであろう。そして、御食子の父の名を可多能祜大連公としている。印欧語で、下位の者・下の位置を表す kata- や cata- の語のイメージを変えようと思ったからだろう。

中臣集団(中官集団)でありながら、天児屋(根)命…中臣可多能祜大連→美気祜大連公→仲郎・藤原鎌足→史・藤原不比等→藤原武智麻呂→藤原仲麻呂・藤原恵美朝臣押勝と、あたかも遠祖にも生殖能力があったように創作された系図には目眩を覚える。

藤原朝臣仲麻呂は、不比等が手を加えた『日本書紀』を参考にして、『大織冠伝(鎌足伝)』『貞慧伝』『不比等伝』『武智麻呂伝』を書いたようだ(『不比等伝』は散逸)。

御食子や弥気を美気祜と書き直して、大連公などと書く脚色は、仲麻呂も中臣集団が閹人集団であったことを承知していたことを物語る。すなわち、実の親子関係を辿れない集団を遠祖と言わざるを得ない氏族であったことを示唆する。

平安時代になって、藤原道長が、 ― この世をばわが世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば ― という歌を作った。― 望月の満月の丸さが欠けたることもなしと思えば ―
と詠んだのは、全盛を極めてはいるものの藤原氏は、もともと中臣と言われた 閹人(アマ)で体の一部が欠けてした集団を遠祖としている…ということを知っていたらからこそ絶頂期の藤原時代の栄華と掛け詞にして作られた感慨の歌とも解釈できる。

「天」の字はアマとも訓まれる。

藤原の「原」の字をハラと訓む。

『萬葉集』の中で、「原」の字を含む氏族は藤原氏以外はない。王族(姓をもたない王族)の中に、市原王(安貴王の子)と湯原王(志貴皇子の子)の二人だけがいるが、藤原不比等の世代よりあとに生まれた王族である。

中国式の地名や氏族名は、たいてい漢字一文字が当てられる。前述したように、倭姫皇后(大后)の歌により、「奥」の一文字で挹婁を表したことがわかった。

このことを敷衍すれば、藤原氏以外に「原」の字を持つ氏族はいなかったのだから「原」の字一文字でも藤原氏を示唆することが可能となる。それなのに、「天」の字を加えて「天原」としたのは「閹人(アマ)でありながら(中臣出身でありながら)呼称を藤原と改めた藤原一族」という意味を強調したかったからだろう。

つまり、「原」と「天原」と「藤原」はハレムの寝台の番人、すなわち、天児屋の番人と言う意味では同意語なのである。

そのことがわかると ― 天原振放見者 ― は「振国(震国)が放った天児屋に居る閹人の藤原という間諜」の意味ととれる。
 間 jiān・jiàn
 見 jiàn・xiàn

― 天原振離見者 ― と「離」の字を使った意味深長な歌もあるのでこのような解釈が成立するのである。

間人宿祢大浦初月歌
289 天原 振離見者 白真弓 張而懸有 夜路者将吉
「初月」とは新月のことである。つまり、丸い形がほとんどない弓形になった朔のことである。そして「白」とは去勢された男性を表す隠語である(後述)。

『萬葉集』には「天原振放見」と続ける表現がほかに何例もある。
― 山部宿祢赤人望不盡山歌 ― の長歌の中でも使われている。

この ― 山部宿祢赤人望不盡山歌 ― に対する反歌が「小倉百人一首」に訓み下し文として採用された
― 田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留 ― の歌なのである。

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