続²・心所

※心王・心所をご存知でない方は、宜しければ
2020年6月20・21日「心」「続・心」心の概要と大まかな分類、
22日「心所」五遍行・五別境について、
23日「続・心所」十一善について、をご覧下さい。

心所の更に続きである。
『大乗阿毘(だいじょうあび)達磨集論(だつましゅうろん)』無着(むじゃく)/アサンガ著で説かれている、五十一種の心所より、今回は根元になる六の煩悩(六煩悩)を紹介する。

先ず、煩悩は全て概念作用(思考)である。
一般的な分類は六煩悩(六の根元的な煩悩)と、二十の付随的な煩悩(根元的な煩悩から派生して起こった二十の煩悩)である。
三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)は六煩悩に含まれる。

煩悩の定義は「それが起こったことによって、心相続が非常に平穏でなく起こる(チベット語直訳)」(『菩提道次第広論』台湾版233頁12行目より)。
それが生じると心が平穏でなくなる、条件によって起こる心理作用である。

煩悩の起こり方は決まっている。
対象が実在感をもって心に映る⇒
対象に対する実在視(映っているように存在するとそのまま信じる思考)⇒
対象に対する意味の付け足し(個人的な見解等。実在感をもって心に映る)⇒対象に対する意味の付け足しを信じる思考(間違った思い込み)⇒
煩悩(対象に対する、穏やかでない心の働き)
となる。
「業と煩悩は分別(概念作用・誤った思い込み)から。それらは戯論(実体視、または意識的発生・実在の現れ)から。戯論は空性によって滅していく。」(『根本中論』第18章5偈より)

煩悩は間違った思い込みから起こっているので、間違った思い込みに依拠していないものは煩悩にはならない。
ただ、間違った思い込みも、考えていることが実在感をもって心に映っている(どっぷり浸かっている)ので、正誤の区別は中々付けられないのが現状である。

煩悩は特定の働きを為す一時的な心の状態である。
理由の如何によらず、欲は欲だし、怒りは怒りである。
理由が何であろうと、心が穏やかでない時には実在視がともなう。
心が平穏でない状態にある時には、心に映っている対象をそのまま受け取り、対象の現れに入り込んでいる状態にある。


六根本煩悩(ろくこんぽんぼんのう):六つの「根本煩悩」
①貪(とん):貪欲・欲望。
「対象に入り込む、向かっていく」様相がある。
実際の対象に、自分で良い部分を付け足して「好き」と思う気持ち。
対象をありのまま捉えて「好ましい」と思うことは、付け足しの誤った思い込みが無いので欲望にはならない。
思い込みが強すぎ、欲望が強くなると執着(共に存在しなければいられない心理作用)になる。

先ず「私」に対する実在視(愚痴)があり、「私」に快いものを求め(貪欲)、「私」に不快を与えるものを厭う(瞋恚)。
なので、実在視と欲は怒りの原因である。

現代社会は欲を使って商売をする。購入意欲を煽る広告は欲を煽っているし、製品開発で依存性を引き起こす手法を取り入れる時は、人々の欲に働きかける。
欲は不快感を伴うとは限らないが、心が高揚して落ち着かず、ザワザワしたり、手に入れなければ心地良くない、不安になるようであれば、煩悩の欲である。

②瞋(しん):憎悪・怒り。
「対象から背反する、離れようとする」様相を持つ。
腹が立って殴りに行く時は、対象を傷つけて自分から離そうと思って殴りに行くのである。
自らを害するものに対する不快感。「嫌い」な気持ち。
客観的に見て『波長が合わないから離れていよう』というのは別。

自己嫌悪は、自分自身に対する実在視から、自分自身に対して否定的な思い込みを付け足し、それを信じ、認識主体である自分と別にもう一つの自分を作って、それに対して嫌悪感をもつ、瞋の一つである。

九種類の対象に対して起こる。
自らを⑴傷つけたもの、⑵傷つけつつあるもの、⑶傷つけるであろうもの。
自らに近しい者を⑷傷つけたもの、⑸傷つけつつあるもの、⑹傷つけるであろうもの。
自分の敵を⑺助けたもの、⑻助けつつあるもの、⑼助けるであろうもの。

③慢(まん):慢心、傲慢。
自らに思い込みで良質を付け足し、自らを高く見たり他を見下したりする。

七種の分類がある。
⑴我慢:自己が実在として存在していると考える慢心。
⑵慢:自らより劣ったもの、または同等なものに対して自分が優れていると考える慢心。
⑶過慢:同等なものに対して自分の方が優れていると考える慢心。
⑷卑慢:実際には自分より大変に優れたもの対して、自分が少ししか劣っていないと考える慢心。
⑸慢化慢:自分より優れたものに対して自分の方が優れていると考える慢心。
⑹邪慢:実際には成就していない、特別な能力を持っていると妄想する慢心。
⑺増上慢:悟りを得ていないのに、悟りを得たと考える慢心。

④愚痴(ぐち):無明、無知。
単に知らぬことと、誤って知ることの二つあるうち、これは誤って知覚する。我執(我が実在として存在すると、誤って執する〈思い込む〉心理作用)。
実在の様相(どんな風に実在しているのか)は学派によって説が異なる。輪廻の根源である無明についての見解が異なる為。
全ての煩悩の根源であることには、同意がある。

⑤疑(ぎ):疑い、迷い。
複数の選択肢があり、一つに決定できない心理作用。

三種ある。
⑴意味を成すことになる疑:正しい選択肢に重きを置く疑。
そんな気がしてきた時の「ものごとは空性であろうか?」
⑵同分の疑:選択肢に同等に重きを置く疑。
空性とも空性でないとも全く決められない時の「ものごとは空性であろうか?」
⑶意味を成すことにならない疑:誤った意味に重きを置く疑。
ものごとはほぼ実在すると思っている時の「ものごとは空性であろうか?」

疑には煩悩に属するものと、煩悩ではないもの(学習対象に対するもの等)がある。
煩悩に属する疑は仏教徒にとって『修行しようかなー?』『修行しないでいようかなー?』や、娑婆人では『盗もうかなー?』『騙そうかなー?』等。
煩悩ではない疑は、『音声は無常であろうか?』『確信はないけど、音声は恒常であろうか?』等。

⑥悪見(あくけん):誤った見解、考え方。
誤った理由により構築された誤った見解。煩悩をともなう慧(知恵。五別境の一)。

五見解:誤った五つの見解。
⑴有心見:壊れ行く(無常な)五蘊に依拠して名付けられた者(我)を実体として存在すると見る見解。自らのみを対象とする。
⑵辺執見:有心見の対称である自我について、実在と虚無の極辺を思い込む見解(我に対する恒常不変の実在視と、来世は全く無く、我は無に帰すと考える虚無論等)。
⑶見取見:誤った見解を正しい見解であると考える見解。
⑷戒禁取見:誤った教義による捨て去るべきことと、為すべきことを正しいと思い込む見解。
古代インドで前世を見ることのできた行者が、今世で人身を得る前、前世で牛であったことを知り、来世人間に生まれる為に人としての生活習慣を斥け、牛を真似て四つん這いで生活する修行を行った。それを正しいと信じる見解や、生贄を捧げて幸せを得ることができるとする見解等。
⑸邪見:誤った見解(存在するものを否定する誤った考え方。無いものを有とする捏造は、邪見には含まない)。
主には因果が無い、信仰対象・信仰の教え・信仰を共に歩む仲間等が存在しないとする見解等。

つづく。

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