吉祥天女の馬

同級生にDというお坊さんがいる。
幼い時から僧になりたかったが、大きいお兄さんに止められ続け、短期大学を卒業してからやっと僧籍を得たという強者だ。
ご両親は1959年前後にチベットからインドへ別々に亡命し、インドの僻地で、道路整備というより道路開拓の肉体労働をしながら知り合い、結婚された。
Dは兄弟も多く、ご両親の苦労もよく知っている。

さて、お坊さんの学校では、学年が変わってもクラス替えは無い。
小規模の学堂では、1年生から卒業するまでの15年間以上、同じメンバーでともに勉強する。僧院では寮生活なので、共有空間での生活が多い。

しかし学生は、入学時から高等科目に上がるにしたがって少しずつ減る。
僧の生活になじめない場合もあるし、在家者の場合は家族を養わなければならず、仕事をする為に僧院の学校を出る場合もある。
それでも、筆者が聴講させてもらったクラスは、最終学年まで最も多くの生徒が残ったクラスだった。
始まった時には30人くらいだと聞いている(筆者は途中からなので知らない)。
最終学年では聴講生を入れて15人残っていた。

授業風景は寺子屋に似ているだろう。
先生ごとに教室が割り振られていて、生徒数が多ければ大きめの教室だし、少なければ(高学年になれば)小さめの教室に変わる。
教室での着席は初日から最終日まで基本変わらない。
正面に、先生が生徒の方を向いて、高めに作られた座に着かれる。前にテキストを置くテーブルが一つ。
生徒たちは床にマットレスが敷いてあり、先生へ向かって並んで座る。一列目四人、二列目四人、三列目三人、という具合である。
一人一つずつ小さな机があるが、足りない時は二人で一つの机を使う。
筆者は僧でもなく、聴講生だったので、いつも一番後ろに座っていた。

さて、最終クラスの二年間、Dは先生の真正面一メートルも離れていない最優先席に席を置いていた。
他の生徒が恐れて席を置かない所に、あえて席を取ったのかもしれない。
彼は僧院中で最も英語ができる学生だったので、外国から視察や交換留学生が来ると、通訳や案内で欠席することが多かった。
でも誰も彼の席を席捲することは無かった。

前述のとおり、筆者は最後尾から授業を受けていたので、前にいる同級生の行動は良く見える。
Dは時々、そのかぶりつきの席で、ボールペンの蓋の細い柄のところで耳の掃除をしていた。蓋の柄を耳の穴に入れて数回耳かきをして、取り出して目の前で見たりしていた。
先生は全く気にせず授業を続けているし、誰も笑わない。
筆者はおかしくてしょうがないのだけれど、誰も笑わないのでなんだか不思議な気持ちになっていた。

先生は生徒たちからとても慕われていた。
先生の意向に沿わないことをするのは無礼だという基本的認識があったので、例えば先生が三時間ぶっ続けで授業をしたとしても(学校で決められた授業時間は一時間半)、生徒は最後までしっかり教室に留まった。
ただ、二時間過ぎた後で質問する生徒は、授業が終わった後(先生が退出されてから)「お前11時過ぎてから質問しただろ」とブーイングに会うのである。

さて、短期大学まで出ているDの質問は、他の僧たちの質問とは少し違っていた。
「お経の中にこれこれこう書いてあるけど、○○という科学者はこう言っている。何故か?」という質問が多かった。
先生も同級生たちもよくわかっていて、「おお、そうだよな。」と面白そうに聞いていた。

ある日の質問で、「先生、吉祥天女が乗ってる馬・・・」とDが言った。
皆が爆笑した。
吉祥天女とは、チベットの仏教では最も強力な護法尊の一尊。
毎週水曜日の夜は、問答をせずに吉祥天女に捧げる供養を全校で行う。
「お前いつも何唱えてたんだ」と授業の後で言われていたが、確かに、供養の文言には「ロバに乗った・・・」とある。
吉祥天女はロバに乗っていたのだ。

授業の中では、実際にどのような修行をどれだけ行うか、ということもテキストに沿って学ぶ。
その日先生は、或るご真言を一つの修法で何回となえるか、ということを説明なさっていた。
その時、Dはさっと席を立った。一時間半経過しようとしていたところだったので、トイレに行くのだろうと筆者は思った。
数分して帰ってきた彼の手には、チベット教育省印刷所から出版された『毎日の読経集』という結構厚い本があった。これは、一般の善男善女、言ってみれば若者からじいちゃんばあちゃんまでの毎日必要なお経が、ぎゅうっと詰まっている本である。
授業の最後に、いつものように質問コーナーがあった。
「じゃあ何かあるか?」
はいっとDは手を挙げた。
「先生、この本の中には、これを唱えれば一回唱えただけでも十万回唱えたと同じになるという真言があります。」
教室爆笑。
「ああ、さっき外に出て行ったのはそれを取りに行ったんだな。便所に行ったのかと思った。まあそうだ。その真言を唱えれば、十万回唱えたと同じだと書いてある。十万倍功徳は積む。でも、一回唱えてそれで終わり、ということにはならない。
十万回唱えなきゃだめだぞ。」
先生はニコニコしながら答えた。

Dのことを思い出すと、「吉祥天女の馬」が頭に浮かぶ。

卒業して数年経つが、彼は母校の英語担当教師として、忙しくしているらしい。ごくごくたまに道で会うことがあるが、小太りだった彼はもう太っていない。


また会うことがあれば、お茶の一杯でもご馳走しよう。
ネタにしちゃったから。

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