縁を考察する

「縁を考察する」とは、『根本中論』第1章の章名である。
27章あるうちの第1で、解説が最も長い章である。

根本テキストには14偈しかないにもかかわらず、
『ブッダパーリタ』という解説は25ページ。
『顕句論』という解説は65ページ。
『正理の海』という解説は67ページもある。

全27章のうち、
『ブッダパーリタ』という解説では長さ第2位(第1位は第7章「生住壊を考察する」)。
『顕句論』という解説ではダントツ1位。
『正理の海』という解説でもダントツ1位である。

では根本テキストはどうかといえば、トップ10に入らない。

この解説の盛り上がりは、第1章の解説で中観帰謬論証派と自立論証派の対決があることと、
「生じる」ということが、『ものごとは実在するのだ』という実体視の一番のよりどころになっているからだろう。

「生じる」が何故実体視のよりどころになっているかというと、『根本中論』の主な対論者にあたる毘婆沙部は、「仏様が言ったから。」と答える。

『経典(釈尊の言葉を文字として記したもの。仏陀以外の者が著したテキストは、「論書」という)で「生じる」ことについて釈尊が説かれたので、釈尊が説かれたからには真実に違いない。』と考えて、「生じる」は真実として存在すると主張するのである。

なので、パーリ語法統を保持する部派仏教の学派では、了義と未了義の違いを分けないと、サンスクリット法統の流れをくむチベット仏教では説明する。
彼らは釈尊が説かれた言葉通りに、教えを受け入れるので、釈尊の言葉の裏を読むなんてとんでもないと考えるのである。

「釈尊が○○を説かれた。だから○○は確かに存在する。」
という主張だ。

『根本中論』本論の中で、多くの偈によって詳細に背理をあげられているのは、仏教徒自部の見解に対してである。
実在を証明する為に念入りに組み上げられた理由に対して、手を変え品を変え「あなたが言ってる通りだとこんな矛盾が出るよ」と背理をあげる。

一方で短い章は、簡単に実在を否定できるものばかりである。

さて、第1章はそんなに長くないけれど、皆がものごとを「存在する」と捉える一番の理由の実在を否定して、他の理由も実在しないと考える手掛かりにする。

「縁」とは普段私達が使う「ご縁がありますねぇ」の縁ではなくて、
副次的な原因、条件の意味である。

「因縁」という言葉も、私達はカルミック・コネクションというか、
以前の業(カルマ)によってできた関係性のように感じるけれど、

『根本中論』の中や、その他の仏教テキストで使われる「因縁」は、
「因」本質的、物質的な原因と、
「縁」副次的原因、条件の二つが合わさった意味である。

その中で、「縁」について考察しようというのが第1章である。

先ず、「生」の実在を否定する為に、「自らより生じない」「他より生じない」「自他両方より生じない」「無因より生じない」といって、
この四種以外の生じ方は無いから、「生」は実在しないんだよ、という。

それに対して、仏教徒で「『生』は有る」という人たちが、
「『他より生じない』とは言い方が間違ってる。
ものごとは他より生じる。釈尊がそう言った。何処で言ったかというと、『ものごとは縁より生じる』と言っている。だから縁はある。だから生はある。」
と主張するのである。

『根本中論』の直接の対論者は毘婆沙部であるので、実在の肯定が基礎にある。

解説の中で清弁や月称がいろいろ盛り上がっている場合には、
「実在」「勝義(聖なる意味)」と「本性」「自性」「本質」は違うといっている清弁と、
「実在」「勝義(聖なる意味)」と「本性」「自性」「本質」は同じだといっている月称が、主張を戦わせているのである。

明日は『根本中論』『ブッダパーリタ』『顕句論』『正理の海』第1章の最終部分を公開する。
問答の仕方とは離れるので、少し解りやすいと思う。

著者の人となりなどを想像しながら、読んで頂ければ幸いである。



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中の思想を明らかにするテキストの代表作、『根本中論』と、その主要な註釈である『ブッダパーリタ』『顕句論』『正理の海』の三論書。

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