『固く実践を決意した彼が質問する経』より(意訳)

仏陀がお言葉を賜れた。
「種姓の子よ。修行道の出離を尽く探求する者はその如くであり、種姓の子よ。仏は執着することになる諸々の対象を捨てたと説かれなかった。その如く、怒るであろうものと、無知になるだろう諸々の対象を捨て去り、仏は『怒りと無知を捨てるだろう』と説かれなかった。
それは何故かといえば、種姓の子よ。仏は、如何なる現象であろうとも、捨てるか得る為に、法は示さない。尽く知る為に、尽く捨てる為に、修す為に、実現する為に、直覚する為に、輪廻より揺り動かす為に、涅槃へ行く為に、斥ける為に、設ける為に、分類する為に、法を説かれない。
種姓の子よ。二元に分けることは、仏陀方の法性ではない。それら二元に行為することは、清浄に入ったのではない。
種姓の子よ。二元とは何かといえば、『私が、欲望を捨て去ろう。』と思うことは二元である。『私が、怒りを捨て去ろう。』と思うことは二元である。『私が、無知を捨て去ろう。』と思うことは二元である。そのように行為する者達は、浄に入ったのではなく、彼らは誤って道に入ったと知りたまえ。
種姓の子よ。このように、例えばある人々は魔術師の奏でる音楽が起こった時、魔術師が作り上げたバーチャルな女性を見て欲望を起こし、彼は欲望に導かれ女性に近寄るが、取り巻きに睨まれて恐れ、恥ずかしくなり、席より立って去る。彼は立ち去って後、彼女そのものを『嫌な女だ』と作意し、『あの女は無常である。歳を取れば醜くなる』、『あの女は苦しみの源だ』、『あの女は空っぽだ。素晴らしい何かが有るもんじゃない』、『あの女は無我である。彼女そのものが有るのではない。』と作意するならば、種姓の子よ。それをどう思う?彼は正しく考えているか?あるいは間違って考えているのか?』

申し上げた。
「仏陀よ。女性ではないものを好ましくないと作意し、無常や、苦や、空や無我であると作意する、彼の実際の努力は間違っています。」

仏陀がお言葉を賜れた。
「種姓の子よ。ここで比丘と比丘尼と、優婆塞と優婆夷の一部で、生じておらず起こっていない諸々の現象について好ましくないと作意し、無常と苦と、空と無我であると作意する彼らも、それに似ていると見よ。私は、それら愚か者達を『修行道を修するのである』とは言わぬ。彼らを『誤って道に入った』という。
種姓の子よ。このように、例えばある人は夢の中で『我が家に王妃がやって来た』と見て、彼女と共に眠り、正念が衰えて『私は眼が覚めている。』と思う。そして『王が探してはいないか?王が私を殺しに来る。』と思い、恐れて逃げ出したならば、これをどう思う?彼は恐れて逃げたことで、その王妃が原因となった恐怖より逃れ得るだろうか?」

申し上げた。
「仏陀よ。それはそうではありません。それは何故かといえば、仏陀よ。彼は女性ではないものを女性と想い、全く間違って思い込んだ故です。」

仏陀がお言葉を賜れた。
「種姓の子よ。ここで比丘と比丘尼と、優婆塞と優婆夷の一部が、貪欲を無くすことに関して『(無くさなければならない)貪欲』という概念を生じさせ、貪欲を恐れることによって恐怖し、貪欲より全く離れることを尽く追求すること。そしてその如く、怒りを無くすことに関して『(無くさなければならない)怒り』という概念を生じさせること。無知を無くすことに関して『(無くさなければならない)無知』という概念を生じさせて、無知の恐れによって恐怖し、無知より全く離れようと尽く探求する者達も、それに似ると見なさい。
私は、それら愚か者達を『修行道を修するのである』とは言わぬ。彼らを『誤って道に入った』という。
種姓の子よ。このように、例えば彼が無いにも拘らず存在すると思い込んだことによって、恐れの無いものに恐れの想念を生じさせた如く、種姓の子よ。凡夫・一般人である幼子達は、欲望の果てを知らずに欲望の果てに対する恐れによって恐怖し、欲望の果てからの出離を探求する。怒りの果ては何も無いということを知らずに、怒りの果てに対する恐れによって恐怖し、何も無い果てからの出離を探求する。無知の果てである空性の果てを知らずに、無知の果てに対する恐れによって恐怖し、空性の果てよりの出離を尽く探求する。
私は、それら愚か者達を『修行道を修するのである』とは言わぬ。彼らを『誤って道に入った』という。」

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