可哀想なラプㇰ

ラプㇰは長いこと地下で育てられた。
水をもらい、栄養をもらってだんだん大きくなった。
充分育って立派になった時、地下から連れ出され、体中を洗われた。
そしてぶつ切りに切られた。
煮えたぎる鍋で煮られ、最後には食われてしまった。

それを聞いたチベットの心優しきおばちゃんたちは涙した。
「何て可哀想なラプㇰ…」
ラマは言った。
「それは間違った慈悲だ。」


「ラプㇰ」とは、チベット語で大根のことです。
この話は、「対象を正しく定めて慈悲の心を起こさなければならない」という例え話ですが、基礎的な知識として「植物は心が無い」という前提に立っています。

「一切有情を助ける為に」と言う時の「有情」は、チベット語では「心を持つもの」。
「有情のみが修行して解脱を得ることができる。」「有情のみが仏陀になれる」と、心を持つ生物を「心が有るもの」として、原因である修行をすれば結果が得られる拠所であると言います。

一方、石や植物等は「心が無いもの」であり、修行もできず、解脱も仏陀の智慧も得られません。

なので私達は心があってホントにラッキー、という話になります。


植物に心は無いのか?
これは筆者にとって長いこと疑問でした。
チベット人の先生に質問したら笑われるのは明白なので、口には出しませんでした。
でも優しく感じる木や、凛とした木や、穏やかな木や、周りのことを気にしない木等、色々印象が違います。
(チベットの?)仏教的見地からは、「植物に心は無い。でも植物に(別の)心が宿ることはある。」と説明します。

「じゃあ、心があるってどういうこと?」と訊くと、苦楽の感受作用によって反応できること。
そうすると、「例えば細菌やウイルス等の微生物はどうなの?」と、問答がどんどん出て来ます。

以前Nちゃんと話していた時、彼女は「植物には心がある派」でした。
「樹木には心があると思う。」
「そうしたら大根にも心が有ると思う?」
「いや、大根には無い。」
「何で?どう違うの?」

筆者にしてみれば、松の木に心があるなら同じ植物である大根にも心がある筈なのですが、大根には無いらしい。
ん~・・・


更に言えば、石や水や風や、地球や太陽に心があるのか?

最近スピリチュアル系で「ガイア(地球)からのメッセージ」や、「太陽からの無条件の愛」等の言葉が、譬喩的にではなくそのままの意味で使われています。

実は筆者も『教義に反することではあるけどダメ元』と思って、地球を擬人化して幸せである様にと祈ったり、仲良しになってるように妄想したりしています。


考えてみると私達は、他人の心を読めるような特別な能力が無い限り、人間の心でさえ「本当に存在する」と直接の経験として感じることはできません。
相手の表情や声音を見て『嬉しいんだな』『悲しいんだな』と想像して、そのまま思い込んでいるだけです。
ペット等の気持ちもしかり。鳥や虫の思いも、彼らの動きや反応を見て想像しています。

木々や花の植物についても同じです。
地球や宇宙についても、自分の心の投影でありながら、対象のほうから対象そのものであるように受け取り、判断し、反応しています。

でも一方で、「もし地球に心があるなら、それは何処にあるのか?」

地球を宇宙空間から見れば、一つの球体です。
一つの球体にマグマや岩石や水や、植物や動物等の有機物や、他にも色々あるでしょうが、物質的な存在は全部地球の一部でしょう?
私達の体も、今は水っぽくて比較的柔らかいかもしれないけれど、死んでそのまま置いておけば、分解されて土や砂と同じようなものになるでしょう。
今座っている椅子や目の前の机と、地球上の物質であるという点で全く同じ。
地面に潜っても、どの石も砂も平等に地球の一部です。
そんな中で、『一部の鉱物だけが特別に地球の心を持っている』とも考え難い。
水も同じです。

そうすると、地球自体は何処にあるんだろう?

地球の心が物質とは別にあるなら、石や砂や水や、植物や動物のそれぞれにも、物質とは別に心があっても良くなります。
そうしたら、部分それぞれに心があるのに、その集合にまた別の心があるってどういうこと?
集団意識?
集団意識の認識主体って「これ」という一つ挙げられる?


・・・普段「私」について考えていることと同じになりました。


今朝(2020年6月9日)久しぶりに参道を歩いて、2~3ヶ月ぶりにコルロ(お経が巻かれて納められている大きな円筒)を回している年配の方々を見ました。
取っ手のところにウイルスが付着し感染の危険があるので、回さないようにお達しがあり、しばらく回されずに止まっていたコルロです。

久しぶりに回されたコルロの音がとても嬉しそうに聞こえて、この文章を記しました。

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