テキストが何を言ってるのか分からない時

筆者の知っているチベットの人々は文字を大切にする。
チベット文字が書いてある紙を床に置くなんて、とんでもないことである。
チベット文字は仏陀の教えを記す為に作られたもので、文殊菩薩などの神が宿っていると考えているからだろう。

それが伝染して、筆者も床に本を置くことができなくなってしまった。
文字が書いてあるものの上に食べ物を置くことも、何だか気が引ける。
文字を大切にしないと、頭が悪くなりそうな気がしてしまうからだ。

困るのは、新聞紙で野菜や食べ物をくるんで手渡される時である。
それから、寝台列車の中で食事をする時。時々新聞紙を下に敷いて、油っぽいカレー等のランチョンマットにしてしまう。
すみません。

さて、文字には知恵の神が宿ると思われているようであるが、仏教の教えでは、テキスト等の形のある教え、文字・文章は、本当の教え(ダルマ)の映像であると言われる。
本当の教えは、煩悩等を無くして「所断(断つべきもの)が断たれたこと」と、修行をして成果を得た心。
それを表す為に文字を使っているので、本当の教えを映しているものだ、という。
もちろんそれも、とても有り難いものなので、お経にはそれをくるむ布が用意される。
黄色や赤の正方形の布で、紐の着いた一隅には、時々金襴緞子の小さな四角が縫い付けられる。
更に、横長長方形のお経タイプのテキストには、紙を重ねた側面に黄色やオレンジ色の彩色をして、「御衣を差し上げる」と言う。
仏陀の教えはテキストに宿るので、お経に対して敬語を使うのである。

お経の勉強をするお坊さん達にも、時々テキストの理解が及ばない時がある。
そんな時、先生方は後輩のお坊さんにアドバイスする。
第一は、「座布団を熱くしろ。」である。
「座布団が熱くなるまでテキストを読め。」という意味だ。
いろいろ気が散って、一所に座って勉強できないお坊さんに向けたアドバイスである。
石の上にも三年いられないタイプに言われる。

他に、「テキストに向かって三回礼拝する。」というのがある。
これも授業中に、先生がおっしゃっていた。
若いお坊さんは、結構真面目に仏教の修行の階梯や、空性について考えている。
テキストに書かれた文字の真意が、何処にあるのか探っている。
言葉を暗記するだけでは理解したとは言えない。仏陀なり、インドやチベットの先人達が本当は何を考えて、この言葉を残したのか、自分なりに一生懸命考えるのだ。
先ず言葉を覚えて、何度も何度も繰り返して言い、考えているうちに、あるときカチャッとパズルが嵌まることがある。
でも、いくら考えても解らない時は、テキストにお願いするのである。
三回礼拝して、頭を付けて、「意味を教えて下さい」とお願いする。

水は上から下に流れる。
それと同じで、自分が得たい何かを持っている相手は、自分より上に置く。
なので、学ぶにあたっても、修行においても、傲慢さは一番の障害であると言われる。自分が上に立ってしまうので、功徳なり良質なりを受け取ることができないのだ。

さて、この礼拝が効くかどうかである。
筆者には、効く。
筆者は普段地味に翻訳をしているが、何年も同じテキストを毎日見ていると、飽きてくるのである。
学校に行っている時には毎日授業に行かなければならないし、一緒に問答もあったので、何だかんだ言ってクラスメイトと話すし、話が通じないとつまらないので一生懸命暗記もしたし、テキストの内容もなけなしの頭脳を使って考えた。
変化があったので、疲れることはあっても飽きることはなかった。
でも今は毎日一人でパソコンに向かう毎日である。
コロナ自粛で、褒めてくれる先生にも会わなくなった。
ダレてきたのだ。

テキストに興味が無くなりかけ、長く机に向かえなくなってきた時、この礼拝を思い出した。そしてやってみた。
すると、毎日の仕事が嫌ではなくなったのである。
言葉がバラバラに入ってきていたのが、ある程度の流れをもって入って来るようになった。
以前のようにフラフラになるまでパソコンに向かうことはないが、仕事を始めると時間はすぐに過ぎる。

今は毎日、仕事を始める前にパソコンとテキストを前にして、三回礼拝している。
毎日少しずつではあるが、仕事は進んでいる。

他の学問で効くかどうかは分からないけれど、仏教のテキストを勉強している方。
どん詰まりになった時、一度試してみてね。

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