先生の挙げる例が面白い南インドでの授業
[全ての汚れを浄化した清浄な心には、欠点を生じさせる力が無い]
(『量評釈・解脱への道の解明』ギェルツァブ・ダルマリンチェン著)より。
「心の本性は光明である。(何故ならば)我執等の闇が覆っているように、心の本性に染みついておらず、その心は一瞬一瞬変化し壊れゆく等の本性を持つものである故である。」
心は本来汚れの無いもので、一瞬ごとに変化する等の性質がある、という意味。
「本性は光明である」とは?
「心の本性は清浄であると示す。形あるものを捉える感覚器官に関係する知覚は、その形色(物質)のあり方について、あるがままの意味をそのままに捉える本性を持つものである。(何故ならば)その対象のあり方をあるがままに捉えることが、その性質、あるいは本性である故である。」
目や耳を通して、直接対象を捉える知覚は、形や音などをそのまま捉える。何故ならば、対象をそのまま捉えることが、それに本来備わった性質であるからだ、という意味。
「(心の)汚れは一時的なものである。」とは?
「汚れは一時的なものである。何故ならば、心のあり方を誤って捉える心である故である。」
この「汚れ」は心の汚れに当たるので、よく言われる「煩悩」や、得にすべての煩悩の根本になっている「我執」が主なものです(我執から全ての煩悩が生じる)。
ここで言われる「我執」とは、自分の身体や心とは別物として存在する「私」を捉え、そのままに「私である」と感じる(思う)心です。
私たちは、自分の身体や心を感じることによって「私である」と自分を認識します。逆にいえば、自分の身体を認識しなければ、自分の心を感じなければ、「私」という感覚は起こりません。
なので、自分の身体や心と別に「これ!」という私を感じる「我執」は、「私」について間違った捉え方をしていることになります。
「我執」が輪廻の根本であると言われる理由は、
① 先ず「私」といって、身体や心に関係なく独立して存在する「自我」が心に現れた様に捉える。
② その様な「私」を常に感じ続ける。
③ 「私」を捉え続けることによって「私」が楽である様にと欲す。
④ その欲望がほしいものの欠点を覆い隠す(あばたもエクボ)。
⑤ 好きな対象を実際の状態より素晴らしいと思い込むことによって、
⑥ 「私のもの」とそれを実際に取ろうとする(今生で死んだ後、来世の体を欲する)。
それ故に、「私」に執着する限り、輪廻を廻り続けることになります。
これらを説明して下さった時に、先生は幾つか解り易い例を挙げてくれました。それを幾つか記します。
余談となりますが、授業をして下さる先生はもちろんお坊様で、50代くらいのメガネをかけた真面目そうな方です。時たまテキストを続けて二回読んでしばらく沈黙し、「そうなのか?わからん。思いつかない。」と正直に言われます。難しい部分なので、生徒ももちろん解りません。
聴いてる生徒もお坊様ばかりで20代~40代が30人~40人程。屋根のついた外の問答場で、先生を取り巻いて座布団持参で授業を受けます。基本1時間授業で最終日だけ2時間5分。決められた科目の最終部分は駆け足で終わりました。
最終日、授業が1時間強過ぎた時、先生は予定通りに続行すれば夕御飯の時間に引っかかりそうになることを気にされました。
「今日終わらせようと思ってたんだが。まだあるな。腹減った人手を挙げて。」
(生徒達「ハハハ」と小声で楽しそうに笑う。誰も手を挙げない。)
「じゃあ次。」
と、結局最後まで続けられました。
我執の説明
「バスを待ってる時に何人かいるだろう?席が取れるかと思って袈裟を腰に巻いて、リュック持ってたら背中にチャッと背負って用意してるやつ。(在家の)男子や女子がいたらどうやってわたり合おうかと思ったり。(生徒達・笑)あれは全部我執でやってるんだ。」
「可哀そうに。女ってもんは『我』(の感覚)が強いから唇に赤い色を付けたりするんだ。なんて言うのか、色付けてるだろ。あれは別に口の役に立つわけじゃないだろう?爪に色付けて飾りみたいにするのも、皆それだ。(身体ではなく)『私』をこういう風にしよう、特別なものにしようと思ってやってる。」
(その後ちょっと考えて、思い出した様に先生は話す)
「俺が前ダラムサラにいた時、ギュトゥ(密教僧院)の前の家の屋上にレストランがあるだろ?ある日そこに食べに行った。友達のゲシェ(仏教博士)誰だったかが一人いた。
そこに西洋人のおばちゃんが来た。全部の指に石の指輪をはめてた。その石も宝石とかじゃないぞ、道に普通に転がってるやつ。きっと何か感動させるんだろうけど、普通の石を針金で括って指輪にしてる。石を括ってる針金も、銀とかじゃないぞ。普段道具を括りつける普通のただの針金だ。………(しばし沈黙)外人ってのは変な奴がいるぞ。」(生徒沈黙)
「他人の為にやってるとは言っても、基をたどれば『私』の為だ。私の母さん、私の友達。時々、人は自分よりも母親を大事にする。命を捨てても母親に尽くす。他人も『あいつは母親の為に命を捨てた』と言う。でも根っこは『私』だ。自分の母親にはしても、他人の母親にはしないだろう?………(しばし沈黙)復讐というのも似たようなもんだ。」
「俺達は、身体は歳をとっても、自分が歳をとったとは簡単にはわからない。本当は、身体が歳とっていくんだから、自分だって歳をとっていく筈だ(『自分』とは、身体と心の集まりを捉えることによって認められる故)。でもなかなか分からない。まあまあだ、まあまあだ、と思って気が付いたら歳をとって閻魔大王の所へ行くばかりになってる。」
(生徒達「ハハハ」と小声で笑)
この項目では「無我(上記の「我」は無い)を悟る知恵を修行することが、苦しみの輪廻から離れるたった一つの方法である」と、「我執が輪廻の根本である」が、問答を織り交ぜながら行ったり来たりして、繰り返し説かれます。
でも仏教以外の信仰には、他にも様々な修行方法があります。沐浴したり、苦行をしたり。それらが正しい修行方法だと主張する人々の反論に対する返答も、『量評釈』にはあります。その部分で、
「苦行をすることによって今まで積んできた悪業を浄化する」と主張取る他派に対して
「『この苦行によって、業の力を一つにまとめて(業果が熟す)強くはっきりした可能性を無くすことにはならないのではないか?(何故ならば)その苦行は、悪業の結果である故である。』………(しばし沈黙)
そうしたら俺達が五体投地(全身を投げ出すように地に伏せて行う礼拝)して疲れることも悪業の結果なのか?五体投地したり、寺を廻ったりしたら疲れるだろう?田舎から五体投地してはるばるやって来る人もいるし………(しばし沈黙)
何年か前、アムド人が五体投地してブッダガヤーまで来ただろう?アムドからラサまで五体投地で来て、ラサからブッダガヤ-まで五体投地で来て、ブッダガヤーからダラムサラまで五体投地で来たそうだ。それが全部悪業の結果なのか?そりゃ疲れるだろう。岩があっても水があっても五体投地で来るんだ。その疲れが悪業の結果なのか?………(しばし沈黙)
これは多分、外道が対論者だからそういう風に言ってるんだろうな。」(生徒・ふーん…)
他派の主張する欲望の無くし方を批判した後で、「ならば君達(仏教徒)の言う「欲望から離れた人(阿羅漢)』とは何か?」という質問への返答の部分
「『阿羅漢は、離欲と言われる。(何故ならば)左から白檀の香水をつけられることと、右から刃物で切りつけられることの全てに対して、執着と怒りを尽く捨て去った面から平等に等しくある者である故である。』………(しばし沈黙)
阿羅漢は、刃物で切りつけられたら『いたっ』とか言わないのか?『私はもう阿羅漢になったのだからそんなこと言ったら情けない』と思ってか?『面目を無くすことになる』とか?」
(生徒達「フフフ」と小声で笑)
また、仏教徒の「無常」や「苦」についての考え方の説明の部分で
「無常にも使い方が幾つかあるだろう?同じように、『苦しみ』にも使い方が幾つかある。下士(来世の幸せを求めて善行を積む者)の考え方、中士(自分が輪廻から離れようとして修行する者)、上士(全ての生き物を全ての苦しみから離れさせる為に修行する者)其々の考え方。今生だけのことを考えてたら信仰じゃないって言うからな。
下士だったら、悪趣(地獄・餓鬼・畜生)の苦しみ。中士だったら、輪廻全ての苦しみ、得に輪廻全てに行き渡っている苦しみ(を考えて、輪廻より脱出したいと心底思う)。
菩薩(大乗仏教修行者)だったら、苦しみがもっと降りかかりますようにと言って、『苦しみよやって来い。苦しみよやって来い。』とも祈る。何無数劫(とてもとても長い間)かけて智慧と福徳の資量を積まなければならいだろ?だから強くなる為に。ほら、困難を沢山経験した奴はちょっとぐらい悪条件に遭ってもヘコまないだろう?あれと同じだ。」
(また別の話をしている時に、先生はふっと思い出して、)
「んー……、『入菩薩行論』にあっただろ?
『無常である誰が無常である何かを、全く欲しがることがあろうか。
無常である誰が無常である何かを、全く嫌うことがあろうか。
無常である誰が無常である何かに、全く驕ることがあろうか。
無常である誰が無常である何かに、全く嫉妬することがあろうか。』
自分も無常で一瞬一瞬壊れていくし、相手も無常で一瞬一瞬変化していくんだから、欲望が起こる基盤そのものが無いって事だ。・・・・・・自分が20歳で相手も20歳だったら、知らない間に両方とも歳をとって、もう死ぬばかりだ。嫉妬しても意味が無いってことだ。
さっき言おうと思って忘れてた。」
さて、ここで説かれている「心」の範囲をどれくらいに置くのか、「汚れ」がどういう風に心を汚すのか等は、問答のお題です。自分で好きなようにお題を選んで、正しい意味はどういう事なのかと問答します。
『量評釈』は論理学のテキストだという理由で難しそうですが、結構面白いことが書いてあります。「昔の人も、今の人間と似た様なことを考えてるなあ」と思うこともあります。
何人かの生徒さんは、自分はその科目を終了しても何度も同じ講義を聴きに来ます。お年寄りの先生が授業をなさる時には、仏教博士になられた方でも授業を聴きに駆けつけます。違う先生方から、あるいは自分の尊敬する先生から再度授業を受けることで、以前気付かなかった新しいことを学べるから。また、心への沁み込み具合が違うからです。同じ言葉を聴いても、前より深く納得できる場合もあります。
古い生徒も新しい生徒も真面目に勉強して、自分の心をどうやって変えたら良いかと考えている様子です。なので、先生の言葉の中にも、普段どういう風に考えると良いか等が端々に現れます。こういう言葉に味があります。
授業が始まると、先生の机の上には録音する携帯電話が山積みです……
(たまにリングがなると、先生以外皆ハッとする。先生はハッとしても表に出さない)
きっとみんな後で聴き直すんだろうな。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?