『聖稲稈(せいとうかん)経(きょう)』抜粋①

その如く、内の二つの縁起生の故に起こる。二は何かといえば、これであり、因と関わるものと、縁と関わるものである。

そこで、内の縁起生で因と関わるものは何かといえば、この何かは無明の縁によって諸行。行の縁によって識。識の縁によって名と色。名と色の縁によって六處。六處の縁によって触。触の縁によって受。受の縁によって愛。愛の縁によって取。取の縁によって有。有の縁によって生。生の縁によって老死と、悲痛と、慟哭と、苦と、心不楽と、混乱等が起こり、そのようであれば、苦の大きな集積だけが起こるとなるだろう。

もし無明が起こっていなければ、諸行も顕現しないものである。その如く、既に生が生じていなければ、老死まで顕現しないものであるが、しかしながら無明が有ることより諸行が顕現して成立するとなり、その如く生があることより老死まで顕現して成立するとなる。

そこでも、無明もこう『我が諸行を実現する。』とは思わない。諸行も、こう『我らは無明によって実現された。』と思わない。それからその如く、生も『我が老死を実現する。』と思わず、老死も『我は生によって実現された。』と思わぬまでである。しかしながら無明が有ることより諸行の実現が起こるとなり、それからその如く、生が有ることから老死まで実現し起こるとなる。そのようであれば内の縁起生は因と関係すると見たまえ。

内の縁起生が縁と関係すると如何様に見られるのかといえば、六要素が集まった故であり、六要素の何が集まったかといえば、このように、「地と水と火と風と虚空と識の要素が集まったことより、内の縁起生は縁と関係する」と見たまえ。

そこで内の縁起生の地の要素とは何かといえば、これが集まって身体の硬い事物を顕現させるものが、「地の要素」という。身体を纏める働きを成すこれは、「水の要素」という。体の、食べたり飲んだり噛んだり味わったものを消化するこれは、「火の要素」という。体の息が内外に動く働きをするそれを、「風の要素」という。体の中の空間を存在させるこれを、「虚空の要素」という。三脚稲架(さんきゃくはさ)のあり様で名と色を顕現して成す識の五つの集合が集まったものと、有漏(輪廻に落ちる性質と共にあるもの)の意識であるこれは、「識の要素」という。それらの縁無くして身体が生じるとはならないが、内の地の要素が揃い、その如く地と水と火と風と虚空と識の諸要素も揃ったとなり、一切が集まったことより身体が顕現して成立するとなる。

そこで、地の要素も、こう『我が集まって体の硬い事物を実現する。』と思わない。水の要素も『我が体を纏める働きをしよう。』と意図しない。火の要素も『我が体の食べ、飲み、噛み、味わったものを消化しよう。』とは思わない。風の要素も『我が体の息を内外へと動かす働きをしよう。』とは思わない。虚空の要素も『我が体の中の空間を存在させよう。』とは思わない。識の要素も『我が体の名と色を実現しよう。』とは思わない。身体も『我はこれらの縁によって生じさせられた。』とも思わぬが、しかしながらこれらの縁が有れば身体が生じるとなる。

そこで、地の要素は、我ではなく、有情ではなく、命者ではなく、生者ではなく、意生ではなく、儒童ではなく、女ではなく、男ではなく、中性者ではなく、私ではなく、我所ではなく、他の誰でもない。その如く、水の要素と、火の要素と、風の要素と、虚空の要素と、識の要素も我ではない。有情ではない。命者ではない。生者ではない。意生ではない。儒童ではない。女ではない。男ではない。中性者ではない。私ではない。我所ではない。他の誰でもない。

そこで、無明とは何かといえば、これら六處そのものを何か単一であると想うことや、一塊と想うことや、恒常であると想うことや、安定堅個であると想うことや、永遠であると想うことや、楽であると想うことや、我であると想うことや、有情であると想うことや、命者であると想うことや、生者や、養者や、士夫や、プトガラであると想うことや、意生や、儒童であると想うことや、「私」や「我」と想うことであり、このような、この様々な様相の無知を「無明」という。

そのように無明が有るので、諸々の対象へ貪欲や瞋恚や愚痴が向かい、そこで諸対象に対して貪欲と瞋恚と愚痴であるこれを、「無明の縁によって諸行」という。

事物をそれぞれに様相として知覚するのは、識である。

識と一緒に起こる有形ではない、それら近取の四蘊は名であるが、四大構成要素と、それらを因としたものは色であり、その名とその色を一つに収めたものが名色である。

名色に依拠した諸根(感覚器官)は、六處である。

三つ集まったことは触である。

触を経験することが受である。

受に執することが愛である。

愛が増強したものが取である。

取より生じた再度の生を生じさせる業が有である。

その因より蘊が生じたことが生である。

生じて蘊が熟すことが老である。老いて蘊が壊れることが死である。
死につつあり昏迷し、顕現した執着と共にある内的な全くの苦痛が悲痛である。悲痛より起こった言葉として言うことが慟哭である。五識の集合と相応する意の不楽を経験することが苦である。意と相応する意の苦が、心不楽である。他にもこれらのような、それらの随煩悩であるものを「混乱」という。

そこで、大きな闇である故に、無明である。顕現して集まり行う故に、諸行である。様相として知覚する故に、識である。互いに依拠した故に、名と色である。生じる門である故に、六處である。触れる故に、触である。経験する故に、受である。渇望する故に、愛である。近く取る故に、取である。再度有に生じさせる故に、有である。蘊が起こる故に、生である。蘊が熟す故に、老である。壊れる故に、死である。悲痛にする故に、悲痛である。言葉で言う故に、慟哭である。身体を害する故に、苦である。心を害する故に、心不楽である。煩悩である故に、混乱である。

あるいは、真如を了解せず誤って知り、知らぬことは無明である。

そのように無明が有れば、三様相の行が顕かに成立し、福徳へ近く行くものと、福徳でないものへ近く行くものと、不動へ近く行くものである。

そこで、福徳へ近く行く諸行より福徳へ近く行く識そのものになり、福徳でないものへ近く行く諸行より福徳でないものへ近く行く識そのものになり、不動へ近く行く諸行より不動へ近く行く識そのものとなるこれを、「識」という。

識の縁によって「名と色」というが、受等有形ではない四蘊は、それやそれの愛へと落ちるので、名である。色蘊と一緒に「名と色」というので、「名と色」という。

名と色が尽く増強することによって、六處の門より諸々の行為を為すことが起こり、それを「名色の縁によって六處」という。

六處より六つの触の集合が起こり、それを「六處の縁によって触」という。

斯様に触が起こったように受が起こり、それを「触の縁によって受」という。

それらの受の一分類を経験することと、顕かに好むことと、殊更に愛着することと、殊更に愛着して入り込むことは、「受の縁によって愛」という。

経験することと、顕かに好むことと、殊更に愛着することと、殊更に愛着して存在することより、「我が好ましい本質や、楽の本質と離れませんように。」と手放さぬ為に祈願するこれを、「愛の縁によって取」といい、愛する対象であるその事物を集積し成就させる為に近取を取り、それやそれの為に祈願する。

そのように祈り再度の有を生じさせる、身体と言葉と心が動機となる業を、「取の縁によって有」という。

その業より生じた諸蘊が顕現して成立することを、「有の縁によって生」という。

生を顕現して成す諸蘊の増強が完全に熟すことと、壊れることを、「生の縁によって老死」という。

(『顕句論』ゴマン学堂図書館2015年版より引用)

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