2020/08/05 ダライ・ラマ法王。チベット人若者へ向けてのオンライン法話を視聴しての自由考察・其の二

有難いことに、今日も大家さんのところで法話を視聴することができた。
大家さん、ありがとうございます。

今日もまず、仏教の紹介から始まった。
見解と行いの二つである。
縁起の見解と、非暴力の行い。

それから、幸せの為には心の平穏が必要であること。
心の混乱は間違った思い込みからくること。
心についての詳細な体系はインド哲学の中にあることを説かれ、釈尊が仏陀の境地を得られてすぐ、独り言のように説かれた
「深く、寂静で、塵と離れ、光明で、無為である、
この甘露の法を、我が得ることになった。
我が示そうとも他者は理解しないので、
語らずに森の中に留まろうと思う。」
という言葉の一行目から、初転法輪・第二法輪・第三法輪の説明に移り、第三法輪のところで如来蔵経に端を発して、最終的な修行段階について話された。

亡命チベット人の若者は、本当に福徳の後ろ盾があると感じる。
以前、ダラムサラのチベット子ども村ホールで法話が行われていた時は、小学校高学年くらいからホールに入って法話を聴いていた。
昨日今日はオンライン法話なので、インターネット回線を使える場所で聴聞しているだろう(学校はまだ始まっていない)けれど、理解しているにしろ、していないにしろ、このような内容を耳にすることができること自体、スーパーラッキーであると感じる。

修行の最終段階について話すとき、どうしても人間が死ぬ時の意識状態について、名詞だけでも口にしなければならなくなる。
言葉の意味は解らなくとも、聴いておくだけで後に知識を得る助けになるだろう。

生きものが死んでいく時の意識がだんだん微かになっていき、最終的に最も微細な意識になる。今日は修行の話だったので、その本来の心(空性を悟っている特別な状態)から仏陀のお身体が現れるという内容であった。
若者達が、後に言葉の意味をそれぞれ学ぶ時、我々が死んでいく時の心の状態の変化について知ることになる。
心は続いていく。
それを知るだけでも、どんなに苦しくとも、自分の苦しみを理由として自殺に救いを求める気持ちは起こらなくなるだろう。
これを、学校の授業の一環として知ることができるなんて、凄いことだ。

今日特に力を込めて説かれていたのは、仏教論理学についてだった。
昨日も説かれていたが、法称著『量評釈』の第二章では、陣那著『量集論』の帰敬偈の言葉「量(正しい認識主体)となった、衆生に利益すると誓われた、教示者、如来、守護者に礼拝して、」について詳しく説明されている。
その中に四聖諦(初転法輪で説かれた「四つの聖なる真実」)についての詳しい説明がある。
四聖諦についての釈尊の言葉は短かったにもかかわらず、これだけ注目されるようになったのは、『量評釈』第二章のおかげであるとも聞いたことがある。
ともあれ、「一章と三章と四章はなくとも、二章は勉強しなさい。」というのが、昨日の法王猊下の指南であった。
二章には、輪廻転生について論理的に証明する部分もある。

法王猊下は、お経を勉強していない者でも分かるように、言葉も変えて説かれている。
空性の説明をしていた時は、先に「対象の面から(有るのではない)」と説かれた後で「対象の上から有るのではない」と言い換えておられた。
日本語だと「対象の方から有るのではない」とでもいうのか。

質疑応答も実生活で共感できる内容だった。
競い合う時には、自分が勝って相手を負かそうという気持ちではなくて、他者の役に立とうという気持ちですること。
誰かの競争心が、(欲望や傲慢、怒り等の)煩悩によるものであれば、可哀想に思う対象であること。
皆の為になることをしている時、それに邪魔をする者があれば、『全ての者に役立つように』という動機で、それに対する対策を行っても良く、それをしないことは菩薩戒の付随的な悪行の一つになること。
等々。

以上、色々説かれたけれど、多分今日の一番のメッセージは「自分がチベット人であることに、誇りと自信を持て。」であったと思う。


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