束縛と解脱を考察する

龍樹著『根本中論』第十六章は、「束縛と解脱を考察する」である。

論書内容の流れとしては、
「事物が本性として有る(実在する)理由を否定する」中で、理由その一である会合が実在することを否定し(第14章)、理由その二「因縁を我がものとすることが、本性として有る」を否定し(第15章)、
理由その三「輪廻が本性として有る」を否定する章が、本章である。

本章では、涅槃が実在することも否定されるが、
涅槃は、輪廻と対称的な存在として提示されるものである。
輪廻が実在することを否定された対論者が、「それでも輪廻はある。何故ならば、それに対する涅槃がある故である。」と涅槃を持ち出してくる。
仏道修行者にとって、涅槃や解脱は最重要ポイントの一つになっているので、最も強力な実在の拠所として提起されたのではないかと想像する。

輪廻を説明する言葉も、釈尊の言葉を引用して語られる。
「衆生より、他の衆生へと行くことを輪廻」といい、輪廻の存在に生まれて、また別の存在へ生まれ変わって行くことを「輪廻」という。

涅槃とは訳語であるが、チベット語を直訳すると「苦しみから超越した」。
「苦しみから超越した」とは日本語であまり聞かないように思い、「苦しみを超越した」と一部訳した。

この「苦しみ」とは、行(条件が集まり行うこと)や蘊(心や身体の集積)にあたり、
煩悩と、煩悩を動機として行われた業(カルマ)の結果であるので、
苦しみの結果の「苦しみ」となる。
この苦しみより離れ、超越した故に「苦しみを超越する」⇒漢訳で「涅槃」となる。

否定の論法は、他の章と同じように、輪廻や涅槃を要素に分けて、それぞれの要素を否定し、最終的に「だから輪廻は実在しません」と納める。

輪廻を例に挙げれば、輪廻の中で不可欠の要素である、①輪廻の中で受け取らなければならない「蘊」と、②輪廻する者であり、蘊を受け取る者である有情をピックアップし、
①②それぞれを「恒常であれば道理が通るか?」「無常であれば道理が通るか?」等と考察しながら否定していく。

章名の「束縛と解脱」は、輪廻と涅槃を否定し終わった第二段階で提示される実在の根拠になっている。
本章で説かれる「束縛」は主に煩悩の束縛であり、
「解脱」は煩悩の束縛から解放されたことである。

チベット語で「解脱(thar pa)」と「解放された(grol ba)」は異なる言葉であるが、
「尽く解放された(修行)道(rnam grol lam)」を「解脱道」と訳すことがあるので、
「解脱(thar pa)」と「解放された(grol ba)」を同じ意味として「解脱」と訳すこともある。
チベット語ミニ知識である。

章の終わりで、身につまされる反論を、対論者がしてくる。
「もし、輪廻と涅槃や、束縛と解脱まで真実として無い(実在しない)なら、解脱を得ようと思って頑張っている人達は無駄なことをしているのか?」というのである。

『そうだよね。』と思う。

それに対して、「輪廻と涅槃、束縛と解脱が本当に有ると思って頑張っている人は、涅槃も解脱も得られない。それらが実在しないと了解する人が、涅槃も解脱も得るのだよ。」と返答される。

ただ美しい韻文の表現として、
「何かに、涅槃が生じさせられることは無い。輪廻を斥けたことも、有るのではない。それに、輪廻とは何ものであるか。涅槃も何が考察されようか。」
と記されているので、

ちょっと解り辛い。



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