転法輪節

今日はチベット暦で六月四日。
釈尊が初めてバラナシ、サルナートで法を説かれた記念日である。
「法輪を回転された記念日」ということで、転法輪節といわれる。
それでは「この日に説かれた教えが、仏陀になって初めての言葉であるのか?」というとそうではない。

「素晴らしい法を私は見出したけれど、他の人に言っても解らないだろうから、一人黙って森で暮らそう」と、釈尊は成仏してすぐに呟いておられた。
その後、梵天が花の雨を降らせ「法を説いてくれたまえ。」とお願いして、初めて法を説かれたのである。

梵天も、仏教徒と外道(非仏教徒)の二種類いらっしゃるらしい。
第一禅定の天(神)で三種に分けられ、一般梵天と、梵天の中でも前列で聖なる言葉を唱えるアリーナ梵天と、彼らを創造したとされる大梵天で、順次偉くなる。
一般梵天とアリーナ梵天は、大梵天を創造神として崇めている。

初転法輪の法話内容は、四聖諦である。
仏法の一番基本になる四聖諦(四つの聖なる真実)であるが、実際にはほんの短い言葉でしか説かれていない。

「これが、聖なる苦の真実である。これが、聖なる集(苦の原因)の真実である。これが、聖なる滅(苦の滅)の真実である。これが、聖なる道(修行道)の真実である。

苦を知りなさい。集を捨てなさい。滅を実現しなさい。道を修しなさい。

苦は知られるものだが、知られるものとして無い。集は捨てられるものだが、捨てられるものとして無い。滅は実現されるものだが、実現されるものとして無い。道は修されるものだが、修されるものとして無い。」
これだけである。

釈尊がご存命の時代は、まだ人々の福徳が豊かで、これらの言葉を聴いただけで、その場で空性を悟った方がいたそうである。
それもどうして分かったかというと、最初の五人の弟子の一人、全知のコーディナが空性を悟った時に、周りで同じ教えを聴いていた夜叉達が気付き、「法輪を回したぞ!」と大声で言ったからだという。
神様達も大騒ぎだったのだろう。

釈尊の説かれたこの短い言葉を、仏教哲学の異なる学派は、それぞれに説明する。
でもそれは見解によるところで、修行の仕方は変わらない。

先ず苦しみを知ろう。
自分が苦しい状態にあると知らなければ、この苦しみから逃れようと思わないから。

苦しみから逃れようと思って初めて、苦しみの原因は何であるか考える。苦しみは結果だから、その原因を無くせば結果は起こらない。
なので、集(苦しみの原因)を捨てましょう。

苦しみの原因が実際捨てられるかどうか考えて、苦しみが原因とともに無くなることは可能かどうか。以前の悩みや、悪癖等で無くなったことがあれば、それが滅に類する経験である。苦しみとその源が無くなる滅を、実現しなさい、という。

これから起こる苦しみを起こらなくする方法は、心の訓練、修行の道である。
頭が良いだけでは幸せになれないので、愛情や慈悲、自他への思いやりを育みながら、間違った思考、思い込みの対象が無いことを知る修行の道を修しなさい。という。

第三グループの「知られるものだが、知られるものとして無い。」等の部分で、学派による解釈の違いが顕著になる。
先ず、小乗の学派は、「苦は知られるものだが、一度知ってしまえば、再度知られるものとして無い。⇒再度知る必要はない。」となり、以下も同様に「集は捨てられるものだが、捨ててしまえば、再度捨てられるものとして無い。滅は実現されるものだが、実現してしまえば、再度実現されるものとして無い。道は修されるものだが、収集されてしまえば、再度修されるものとして無い。」となる。

空性を認める学派は、「苦は知られるものだが、知られるものの実体として無い。」となり、以下も同様に「集は捨てられるものだが、捨てられるものの実体として無い。滅は実現されるものだが、実現されるものの実体として無い。道は修されるものだが、修されるものの実体として無い。」となる。

理に適っている、というか残念なことは、もう起こってしまった苦しみは、もう有るので、無くすことはできないということである。
これから起こらないようにしましょう、という訳だけれど、今ここの苦しみに対する対処もある。
時間は一瞬一瞬過ぎて行く。
なので、今の一瞬善良なことを考える、言う、行うとすれば、その一瞬後はその結果でより幸せな方向に変化している。こうして一瞬一瞬時を過ごしていけば、今ここの苦しみも一瞬毎に軽くなる。
まぁ、無理して善良にしなくとも、自他に思いやりのある状態でその時々を過ごせばよいと思う。

大乗の教えに従えば、今も仏陀はともにいて、全てのものごとをご存知である。
あなたの心もご存知だ。
目をつむって、仏陀に「今の私に必要なメッセージをお伝えください。」と頼めば、四聖諦を説いてくれるかもしれない。

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