如来を考察する

龍樹著『根本中論』第二十二章は、「如来を考察する」である。

「如来」とは、仏陀のことである。
せっかくの機会なので、仏陀の十のお名前、称号を記す。

仏十号(ぶつじゅうごう)
如来・応供(おうぐ)・正遍知・明行足(みょうぎょうそく)・善逝(ぜんぜい)・世間解(せけんげ)・無上士・調御丈夫(ちょうごじょうぶ)・天人師・仏世尊。
如来十号ともいう。(『広辞苑』より)

『根本中論』第二十二章は、第三章から始まる「二無我(法無我・人無我)を詳細に説く」に含まれる「有(輪廻)の継続は本性が欠如する(実在しない)ことを示す」の中で、
向上していく方向「如来は本性が有ることを否定する」と、輪廻に落ちる方向「煩悩は本性が有ることを否定する」の二つあるうちの、前者に当たる。

対論者の挙げる輪廻が実在する理由の一つは、「如来が成仏するまで、大変長い時間、輪廻の中で修行を積まれた。だから輪廻は実在するのだ。」である。
それに対して、「もし如来が実在するなら輪廻の流れも実在するけれど、如来は実在しない。(実在ではない)縁起生であれば、如来も、如来の持つ素晴らしい性質も理に適う。」
と詳しく説かれるのが本章である。

一般に、仏教入門クラスや法話会で最もよく引用される一偈が、本章第一偈である。

「蘊ではなく、蘊より他でもない。それに蘊は無く、それにそれは無い。
如来は蘊を具えるものではない。如来は如何なるものであるか。」

如来も、如来以外の生きものも、
認識される拠所になる身体や知覚などがあって、初めて認識される。

例えば「わたし」を認識する時には、「わたしの身体」や「わたしの心」を認識することによって、「わたし」であると分かる。

身体には、頭や手や足や胴や、細かく分ければ個々の細胞という部分がある。
心にも、一時的な感覚、感情や思考など、細かければ一瞬一瞬変化していく心理作用等の部分がある。

この、身体や心の部分の集まりを、「蘊(うん)」という言葉で表す。

仏陀も、「仏陀」と名付けられる拠所になっている身体や心の蘊がある。

そこで、「仏陀が実在するかどうか?」と考察する時、
「仏陀」そのものと、仏陀と名付けられる拠所になっている「蘊」そのものの関係性を考える。

これをそのまま「わたし」に応用して考えることで、
「わたし」が実在するかどうか?
「わたし」が自分で感じているように有るかどうか?
と考えるのである。

「わたし」は、「わたしの身体」「わたしの心」である(同一である)かどうか?
ここで、「わたしの~」になっている時点で、「わたしの身体」「わたしの心」は「わたし」ではない。
「わたし」とは別のものとして認識しているから、「わたしの~」という言葉になるのである。

ならば「わたし」は、「わたしの身体」「わたしの心」とは別他のものであるのか? といえば、そうでもない。
「わたしの身体」「わたしの心」があるからこそ、「わたし」が感じられる。特に、「わたしの心」がなければ、「わたし」は感じられず、「わたし」があること自体分からない。

「わたし」に、「わたしの身体」「わたしの心」が有るのか?
「わたしの身体」「わたしの心」に、「わたし」が有るのか?
といえば、そうでもない。

ここで「~に有る」という言葉の意味は、所依(しょえ)・能依(のうえ)といい、
能依とは、依るもの。所依とは、依られる所のもので、
例えば、皿の上に菓子がのっていたとすれば、菓子が能依、皿が所依である。
皿と菓子は別であるように、能依と所依は別である。

ここで実在云々と考察される時には、「別」といえば「実在する別」と考えなければならないので、
「別」=「全く関係ない別」となる。

先に、「『わたし』と、『わたしの身体』『わたしの心』は別他ではない」と考察してあるので、「別」ではない故に、
「わたし」(所依)に、「わたしの身体」「わたしの心」(能依)が有るのではなく、
「わたしの身体」「わたしの心」(所依)に、「わたし」(能依)が有るのではないとなる。

「わたし」は、「わたしの身体」「わたしの心」を具えるのか?
という考察も、上記と同じ理由で否定される。

「具える」には二つの具え方があり、
「わたしには耳がある」という不別の具え方と、
「わたしには金がある」という別としての具え方である。

このうち前者は「不別」=「同一」ではないという部分で既に否定しており、
後者は「別」ではないという部分で否定してある。
「不別」と「別」の両方の具え方が否定され、それ以外の具え方も無い故に、「具える」という方向も否定される。

しつこくなるが、「同じ」「別」「有る」「無い」「具える」などいろいろ言葉が出てくるが、ここでは実在するか、しないかを考察する場面であるので、全ての言葉は実在の意味を伴って使われている。

「わたし」と「わたしの身体・心」は、同じではなく、別ではなく、どちらかにどちらかが有るのではなく、「わたし」が「わたしの身体・心」を具えるのでもない。

では「わたし」とは何であろうか?

『根本中論』自体、ほとんどが問答で構成されているが、
対論者の思い込みを打破することで、思い込みと共にある実体視を斥けることが主要な意義であると感じる。

仏教徒が最も大切に思っている仏陀を考察することで、
すべてのものごとが、我々が思い込んでいるように「本当に有る」のではなく、互いに関係しあって成り立っていると、考察を導く。



『根本中論』『ブッダパーリタ』『顕句論』『正理の海』第21章・第22章、本日(4月27日)公開しました。


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