業を考察する

龍樹著『根本中論』第十七章は、「業(ごう)を考察する」である。

「業」とは、いわゆるカルマというもので、「行為」の意味である。

しかしながら、全ての行為をカルマというのではない。
カルマとは、行為者がその行為をしようという動機、意図を持って為された行為である。
なので、何も考えずに歩いていたら、うっかり犬のしっぽを踏んでしまった等は、行為ではあっても業を積んだ(カルマを積んだ)ことにはならない。

本章は、『根本中論』全二十七章の中でも、章立ての内容が、他の章とわずかに違う。

もっとも違うのは「輪廻の十二縁起を考察する」という第二十六章で、
輪廻に転生を繰り返す次第と、輪廻から離れる次第をそのまま説明し、
「○○は本性として存在しない」「○○は実在しない」という空性の理論体系が出てこない。

これは、「空とは、世俗のものごとは何もないということだから、因果も存在しない。ならば何をやっても良いのだ。空なのだから。」と空性を誤って考え、
因果や輪廻転生のことわりを無視する修行者が出る危険があるからだと、以前聞いたことがある。
空であろうと、本性が無かろうと、実在しなかろうと、
因果のことわりに基づいた業の結果は経験されるものである。
それによって利害が起こり、それによって苦楽が起こる。

なので、「修行の実践において礎となる因果の法」の実在の欠如は、
(実在は欠如するけれども)本論書の中で特化して説かれていない。

第十七章も、少しそれに似ている。
本章では、先ず業について、対論者の主張が長く展開される。
章の後半では、業の実在が否定されるものの、全三十三偈のうち第二十偈までが対論者の主張になる。
相手の言っていることの方が、自分が言っていることより多い勘定になる。

これは龍樹が、業について本章を借りて説明したとも受け取れる。
業の実在や、業の潜在的な影響力が行為者に留まる為の実在など、特別に説明しなければならない部分があるとしても、
基本的な業の性質や分類は、仏教徒内で共通の認識があるからである。

他者に対して役に立つ、良いことをすれば善いカルマを積んで、その結果がそのまま巡って幸せが得られる。
他者を害する、悪いことをすれば悪いカルマを積んで、その結果がそのまま巡って自分が苦しむことになる。

仏教徒であろうとなかろうと、カルマの巡り方は同じなので、
『基礎知識として覚えておきなさい』という意図があるのではないか。

本章では業について説明し、その実在を否定し、
更に本性が無いにもかかわらず(非実在であるにもかかわらず)カルマが働くことを例を挙げて示す。
これからも、空性であろうともカルマの働きは作用することが重要であることが分かる。

それでは、我々が実際経験しているカルマとは如何なるものか。

今経験している生活は、以前のカルマの結果に当たる。
経験自体は実れば再度結果を生むことは無いので、自らが直面している事態を受け入れて経験し終われば、それで終わりである。
しかしながら、経験しているものごとに対して再度注意を向け、それに対して何らかの動機と共に行為をなせば、その時我々はカルマを積むことになる。

経験する時にその対象を認識し、それを本当に存在すると思い、それに良し悪しの思い込みを追加し、好き嫌い(欲望と怒り)等が起こり、その動機で行為をなし、業を積む(カルマを積む)。

そして、終わることのない輪廻が続くことになる。

普段気付かずにはまり込んでいる輪廻の輪から外れるために説かれたのが、
本章である。


『根本中論』『ブッダパーリタ』『顕句論』『正理の海』第十七章、明日公開予定です。

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