行(作用)を考察する
龍樹著『根本中論』第十三章は、「行(作用)を考察する」である。
漢語で「行」と訳されるが、
チベット語では「集まる(‘du)」と「(行いを)為す(byed)」で、原因や状況が集まり働きを為すこと(作用)を言う。
五蘊の一つ、行蘊の「行」と同じだ。
変化するものごとを指すので、ツォンカパ著『正理の海』で項目を付けられた本章の内容は、「単なる事物の本性が欠如すると示す」のうち、 「事物が本性として有ることを否定する(第13章)」。
その先の内容は、「本性が有る理由を否定する(第13~17章)」である。
それまで部分的な事物・無事物を主題として、本性の欠如が説かれてきたが、変化するものである「事物」を一括りにして、実在が無いと説く。
驚きなのは、この目次が、かなり前の目次と関連して出てくることである。
第三章の始め、書籍型にして119ページ前に出てくる目次に関係している。
119ページ前の第三章の冒頭で、「二無我を詳細に説く」という項目があり、その内項目として、 「法(現象)とプトガラをそれぞれに分けて説く(第3~12章)」 「単なる事物の本性が欠如すると示す(第13~17章)」
「無我の真如へ入る方法(第18章)」
「時の本性が欠如すると示す(第19章)」
「有(輪廻)の継続の本性が欠如すると示す(第22章)」
と、メモしておかなければ十中八九忘れてしまう伏線が張られながら、 全二十七章の『根本中論』は続く。
本当に、ツォンカパ大師がおられなければ、筆者においては全くのお手上げ状態である。
第十三章で説かれる道理のほとんどは、
対論者の承認する本性(実在)のあり方を特定し、
それに反する、実際のものごとのあり様を示して、
実在が無いと証明するものである。
「本性」や「自性」と呼ばれるものは、何らかの主体の「そのもの」である。
いうなれば純粋で、混ざり気のない「そのもの」があるならば、
何ものにも頼ることなく「そのもの」として有ることになるので、
他から変化してくることも、他に変化していくこともあり得ない。
もし変化するのであれば、純粋でピュアな「そのもの」ではないということになるので、
実在する「そのもの(本性=自性)」を否定できるのである。
何故対論者が「そのもの」が有ると言っているのかと言えば、
何かを正しく認識する時、
正しい認識主体が認識する対象は、正しい対象でなければならず、
その正しい対象の本性(そのもの)に向かっていなければならないからである。
この本性そのものを否定することを、龍樹はじめ多くの論者方がなさっている。
正直に言って、中観の授業を受けることができたとしても、
空性の否定対象に当たる「本性」「そのもの」を、感じ取ることはかなり難しい。
「感じ取る」とは、自分自身の心と分離できない状態で混ざり合っている実在視を感知して、それがどのように対象を見ているかを観察し、
どんな風に捉えているかを経験として知ることである。
言葉で唱えることができたとしても、その本当の意味や、
それが自分の心にどれだけ深く染み付いているかは、深く内省しなければ掴むことができない。
先ず言葉を覚えて、何度も唱えて、何度も考えて、
意識的な経験から見出されるものだと思っている。
言葉を復唱することは優しい。
変化するからこそ、本性が無いのだと、
世俗と勝義のバランスを取れる時が、いつ来るだろうか。
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