鳥葬

去年の冬ブッダガヤで、先生と妹さんが話しているのを聞いて、今でも鳥葬が行われていることを改めて知った。
他の先生が話していたことを聞いたことがあるので、朧気ながら知ってはいたのだが、現実味は薄かった。

鳥葬とは(ご存知の方も多いとは思うけれど)、死者の遺体を鳥に捧げる葬り方である。
今まで使ってきた物質的な身体を、必要がなくなってから他の生きものの糧として捧げる弔い方で、亡くなられた本人にしてみれば、「もう要らなくなったから、どうか使ってね。」と、人生の最後に功徳を積む方法であると思う。

高い山に遺体を運び、横でお経を読み、供養しながら遺体を鳥が食べやすい大きさに切断する。
それを鳥が食べにくる。
鳥と言っても勿論小さくて可愛いスズメなどではなく、猛禽類のワシやタカである。
外側の肉が食べられたら、骨を細かく砕いてツァンパ(麦焦し)と混ぜて団子にし、全て食べさせる。

鳥葬を僧院に頼む人々もいるし、故人の家庭でお坊さん達を頼んで供養してもらう場合もあるらしい。
お坊さんと一緒に力のある男達が遺体を運び、解体する。
夫婦の一方が亡くなった場合は、最後の団子は連れ合いが作ると聞いた。
作法と一緒に読まれるお経なども決まっていて、結構頻繁に行われているらしい。

高くて清浄な場所で供養することや、散骨することは、多くの人々が望む。
来世、清らかな知恵をもって生まれることができるからだという。
火葬された僧院のお年寄りの先生が、「私の骨は高い山の上に撒いてくれ」と弟子に頼んでおいたと聞いたこともある。

その妹さんも、苦労をされてきた方なので肝が据わっている。
彼女のところへネパールなど外からお客が来ると、巡礼をして色々な場所を廻る。
その時に重要スポットとして引率していくのが、その鳥葬の山なのだそうだ。

少人数の友人グループが彼女のところを訪れると、日程を見て、僧院に連絡をとり、鳥葬が行われるようであればその日にその山へ登り、お布施をするなど供養する。
友人の中には、鳥葬を見たあと気分が悪くなって、しばらく肉が食べられない人もいるらしい。
あり得る。

でも、鳥葬に参列する大事な意味もある。
今、私達が大事に思って、それを保持する為に良いことも悪いこともするこの身体も、死んでしまえばただのたんぱく質だと悟る為である。
身体を保持する為に、どんなに人を集めようと、お金を集めようと、死ぬ時には持っていけない。
それよりも利他の行いをして、心を高めておけば、その功徳を持った心が自分と共に行くことになる。
更に上級者であれば、我執を断ち、輪廻から解放され、仏陀の境地を得るために今生を無駄にしないように使おう。
それを知る為だ。

彼女は見込みのありそうな人々を鳥葬へ連れて行く。
家族はもちろん、全員行ったことがある。

彼女には孫が一人いて、その子も連れられて行った。
「全然怖がらなかった。それどころか、お坊さんと一緒に知っているお経を唱えていた」
そうである。

チベット人の中には、幼いにもかかわらず大人のようにものごとをやってのける子どもがいる。
彼女のお孫さんもその一人で、生まれた時から大柄で、立派な赤ちゃんだったそうだ。
お母さんのお腹の中で、6500グラムまで大きくなったそうである。
お母さんも立派だと思う。

2歳の時には、菜切り包丁で人参を切ることができ、お母さんも「この子は大丈夫。」と安心していた。
まな板で、トントンと人参を刻むのである。
頭の良い子で、チベット語と一緒に中国語も話せる。
コンピューターゲームも好きらしい。
買い物に行けば仏像を買って欲しいという。
小さいのに(そんなことを言っては本人が怒るだろうが)、大人のように意思がはっきりしている。
ただ恥ずかしがり屋だ。

その子が鳥葬に行って、怖がることなく、お坊さんと一緒にお経を読んできたのだそうだ。
生きることと死ぬことの、両方を自然に自分の中に納めていっている。

先日義理のお兄さんをなくした友人が、メッセージを残していた。
お兄さんの遺体を山頂まで背負っていったのは、彼女の息子だそうである。
自分の父親のように思っていたのだろう。お父さんと長く一緒にいられなかったのが、可哀想だと涙声で言っていた。本当のお父さんは、もう御病気で亡くなっている。

返信の言葉が見付からず、合掌を送った。

この身体が、心の一時的な乗り物であることは、仏教の基本の基本のコンセプトである。
目の前に怖いことが起こると、あわててすっかり忘れてしまうが、落ち着いた時にはもう少し思い出してみようと思う。

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