お前からは

二十年程インドにいて、筆者は沢山の先生にお世話になってきた。
文字を習った先生、仏教哲学について習った先生、修行について習った先生、基本的な考え方を習った親代わりの先生など、沢山の先生方がいる。

多くの先生方の中で甲乙を付けることは良くないけれど、本当に良い先生方は、受け取らない。
「良い」とはどういう意味かというと、「教えに誠実な」「相手のことを慮る」という意味である。

ダラムサラやその他のチベット人居留地には、外国人の生徒を持つ先生方がいる。
外国人は、インド人やチベット人と比べてやはり裕福なので、お布施も多い。
筆者も一応外国人の中に入るので、授業や質問に行くときに手ぶらで伺ってはいけないと思い、用意をする。

でも、一部の先生は受け取らない。
「お前は長くインドにいるから、大変だろう。」
「お前はただの坊さん(質素という意味)だろう。」
「次からは何も持ってくるな。」
「君が何か持ってきても、持ってこなくても、同じように答えるよ。」
「何でお前から受け取れるんだ。」
先生方の言葉は様々だけれど、差し出す人間のことを心配してくれている。
(筆者は大体着たきり雀でいるので、他の外国人と比べて貧相に見えたのかもしれないが)

「法(教え)」は売り物ではないと言われる。
僧院では、先生方は無償で学僧たちに教えを授ける。
基礎の問答から学位を取るまで、場合によっては二十年以上かかるけれど、お金の為に教える先生はあまりいないだろう。毎月の支給はそれほど多くないと思う。

『菩提道次第広論』という、仏道修行の段階について詳しく書かれたテキストがあるが、その中に「法を売る業(カルマ)」という悪業が出てくる。
法をビジネスの手段として使うことは、民を幸せに統治できる優れた王様を、掃除人としてこき使うようなものだと書かれている。
正当に評価をしないので、正当な恩恵を得られない。
修行をして本当に心を変化させたいと望む先生方にとって『菩提道次第広論』は聖なる書だ。何より、自分がお世話になった先生方が無償で純粋に与えてくれた教えを、自分が世俗的な利益の為に使うことは良くないと考えておられるのだと思う。

今でこそスポンサーがつき、豊かになってきている大僧院生活であるが、初めてインドに僧院を作り始めた時は、大変なご苦労であったと聞いている。
今その世代はだんだん少なくなってきているが、1959年前後に亡命してきた方々はゼロから始めた。森の木を抜き、開墾し、畑を作り、道を作り、建物を建て、牛を飼い、インド政府の支給はあったけれど充分ではなく、現金と日々の糧を得る為に、勉強よりも労働時間の方が多かったと聞いた。

ご本人は言いたがらないが、ある先生は日中僧院の事務所で仕事をして、夜は寝ないで大型トラックを運転して鉄筋をゴアまで運び、現金を得ていたのだという。
そうしてためたお金で、僧院の僧全員に朝ご飯のお茶とパンを配給できるようになったというのだ。

ご自身が苦労された方は他人の苦労もわかる。
なので、お金持ちそうな人からお布施は受け取っても、無職の人間からお金を受け取ろうとはしなかった。

筆者はとても恵まれていたのだと思う。

でも、全ての先生がそうであるとは限らないとも知っている。
日本の生活を離れてインドにいる人間には、強みもある。お金に関わる苦しみも知っている。お金は有ればいいってもんじゃない。
でも、お金に関わる苦しみを知らない人々は、お金は有れば有るだけ良いと、無条件に考える。頂ければ頂けるだけ頂くことが良いことだし、それを欲することも肯定的。更に周囲に集う人々は有難く感じてお布施をなさり、場合によってはお布施が当たり前になっていくので、布施をしない人間はその場にいられない。

そういえば、筆者も宗教団体を一緒に作ろうと持ちかけられたことがある。
その方が先生になって法を説き、筆者が多少のチベット語で通訳をしてお金を稼ぐという案であった。
その時は嫌な気持ちしかしなかったが、今考えてみれば、『その方はお金で苦労をされてきたのだろう』『不自由な思いや、将来についての不安があったのだろう』と想像がつく。その良策であると思って言っていたのだ。価値観の違いである。

そんな経験の中で、ある先生がおっしゃっていた言葉を思い出す。
「個人へ沢山差し上げても意味がない。」

その先生は、とてもとても偉いラマの侍従をしていらっしゃる方。
その方がお寺の周りを歩きながらおっしゃった。
「お前はそれを、他の人にも知らせなきゃいけないよ。」
頷いたものの、筆者はなかなかその言葉を人に言えなかった。
周囲の人殆どに、「自分の先生へ、個人的に沢山お布施することが良いことだ」という認識があったから。
でも、お布施が多くなっていくに従って、お人柄が変わっていく方もいた。
悲しいことだけれど。

今回書きたかったことは、「高額の布施をすることが良くない」ではない。
ご自身が誰か有難い方に会って、福徳を積もうと思ってお布施するのはとても良いことだ。
でも福徳は、金額ではかれるものではない。

そして、先生方から頂いた一番有難いものの一つは、思いやりだ。

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