「マトリックス」についての仏教認識論的考察

最近シンクロで映画「マトリックス」についてよく聞く。
静かなブームと言ったところか。
世界は私たちに映っているだけのもの。
それが解れば、そこから抜け出す方法を探すことができる。

筆者は15年以上前に、インド・ダラムサラという場所で、仏教を一緒に学んでいた台湾人の女の子から「マトリックス」について「スゴイ良い」と聞いた。
頭の良い子だったので、彼女が言うからにはきっと「スゴイ良い」のだろうと思って、「マットレス」を検索したけれど、全然見つからなかった(当たり前)。
後に彼女がデータをコピーしてくれて、めでたく視聴することができた。
覚えてるのは、真っ白な画面にポツンポツンと人が現れて何か話していたシーンだけ。
他はあまり覚えていない。

「マットレス」
じゃなくて「マトリックス」は、私たちにとって「よくぞ作ってくれた!」という内容だった。「監督はオショーの弟子だったんだって。」と彼女は言っていた。
後で学校の問答の時にも、同級生(お坊さん)の話題に上っていた。

「マトリックス」の世界観は、唯識派の見解に似ている。
仏教で唯識派の見解は、「全ての物事は知覚の我性である」という。
平たく言うと、見ている側の主体(知覚)と、見られている側の対象の現れは、別質ではない。見ている側も見られる側も、知覚(識)の本質だから、ただ識しかない。

どうして識しか無いかというと、心に埋められた一つの種が芽を出して、二つの枝を伸ばす。一方の枝が認識主体である知覚、もう一方の枝が認識対象の現れになる。
その二つともが、知覚が無くなった後の潜在的なエネルギー(薫習)である同じ一つの種子から生じているから、知覚(識)だけ。
それで唯識派。

「マトリックス」の世界観はまさにそれ。
「オショーは唯識派の考えを弟子に教えていたのだ!」というのが皆の見解だった。

「じゃあ、マトリックスの世界観は本当なの?」といえば。
「まったくホント。」と筆者は言う。

ニューエイジ系の瞑想を色々調べてみた人で、「ある一点を長時間(30分くらい?)集中して凝視していると、色が変わってくる」と読んだことがある人もいると思う。
筆者も日本にいた時やってみた。確かに変わる。
その時はスゲーと思ったけれど、後で考えてみれば当たり前のことで、眼からの電気信号が脳内神経でヒートアップして、情報を正確に伝達できなくなって起こる。
世界が異次元にシフトしたわけではない。

何故そう解るかというと、筆者は色彩感覚が無くなったことがあるから。

その前から、ある言葉を何度も唱えるという練習を何度かやっていて、目の前に置いた仏画の色が変化したり、一色になったりする経験はしていた。
そういう時は集中しすぎていたか、眼を開けすぎて少し疲れていたり、頭の後ろの方が腫れて重たいような感覚もあった。

色が無くなった時は、比較的長めの外出自粛状態で、唱える時間も長かった。
更にその時は感情の振れが大きくて、目前の仏画を見て涙を流しながらだったと思う。
頭も少しボーっとしながら唱えていたが、前かがみになった時、色が無くなった。
カラーだった仏画が白黒になった。
『ヤバイ』と思った。
『これからずっと色無しで生活するのか・・・』
インドに来る前は絵を描いていたので、色が見えなくなるのは残念だった。
体を少し起こしたら、色が戻ってきた。
『あれっ?』と思ってまた前かがみになったら、また白黒になった。
起きたら色が出た。またかがんだら白黒。何回かやってみた。
頭の後ろの血管(神経?)が圧迫されたり緩んだりして、色が無くなったり出て来たりすることが解った。

ということは、『外の世界を直接経験している』と私たちが思ってるものは、感覚器官を通して、脳の神経を経由して、意識に映ってる映像なのだと後で納得した。
これは脳科学関係の話で、普通に皆が知ってることだと思う。

ここで面白いのは、仏教哲学の中でも小乗学派にあたる毘婆沙部(説一切有部が含まれる)では、眼等の感覚器官を、知覚と一緒に対象を認識する認識主体であると捉えているが、それが同じ小乗でも経量部に上がると、感覚器官は認識主体ではなく、外界を捉える知覚の副次的原因(その知覚が生じる条件)になっていること。
簡単に言えば、
毘婆沙部の主張は、眼が外の色や形を見ている。
経量部以上の主張は、眼は外の色や形を認識しているのではなくて、眼を介して送られた情報が知覚に現れて、知覚が色や形を認識する。
「知覚」を「能」に言い換えれば、もっと解り易いかもしれない。

これ、2000年以上前から言われてることです。
凄くないですか?

形ある身体を持つ、脳や感覚器官を持つ生き物が、外界の物事を知るための体の働きは、ずっと昔からそれほど変わっていないと思う。
大昔のインド人が樹木を見る時の眼と脳の働きと、現代人の樹木を見る時の眼と脳の働きは同じだろう。それぞれの個人でも大きな違いがあるとは思えない。

見えてるものはみな同じ。
でも説明の仕方が違うのは、それぞれの人が経験を通して違う解釈をしたからなのだと思う。

小乗の学派から大乗の学派に移り、唯識派に入っても、見えているのはそのまま。
「知覚」と「知覚に映った現れ」しか私たちは認識できないから、知覚に映っていないものは存在しない、というのが唯識派。

更に中観派に入ると、唯識派の見解を取り入れた中観派と、「知覚に映る前に外界は有る」という派に分かれる。
帰謬論証派は、外界を肯定するけれど、「知覚と知覚に映っている現れが別の実質でない(唯識派の空性の否定対象を表す言葉)ことを悟ることはある。」ともいう。

難しくなってしまったけれど、結論は「マトリックス」の世界観は仏教の認識論で説明できるし、筆者は理屈でなく(ということは論理的思考ではない・・・)その通りだと思っている。

眼で見えるものが映っている映像だとしたら、映る前の色も形も無い状態がある筈だし、
音が現れる前の無音の状態(ミラレパというチベットの聖者が聴いてる)もある筈だし、香る前の無臭や、味わう前の無味や、触感で感じる前の無感覚もある筈。
でもいつも五感が一緒に働いて、全てが連動して感じられるから、私たちは五感で感じる世界を真実だと思っているんだと、筆者は思っている。

さて、「マトリックス」監督の師匠オショー・ラジニーシ師について、問答時のダベリで話していた時。
学僧はやっぱり空性について考えてるし、瞑想修行についても興味をもっている。
オショーのアシュラムでどんな修行をしているのか、本を読んだ同級生が話していた。
結構悟る所まで行くのか、という話になって、「だったら一回行ってみるか」という話になった時、真面目なKが慌てて言った。
「あそこはダメ!」
「?」
「あいつら何でもかんでもやってるぞ。アシュラムの中で一緒に子供を育ててるけど、誰が誰の子どもか分からないって言ってたぞ!※」
「・・・・・・・」
こうして、学僧にオショー・アシュラムでの瞑想修行への道は断たれたのであった・・・

※これは数年前の問答時の、一学僧の個人的な見解です。(^‐^)

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