続・心

続・心

直子 デチェン

昨日の続きである。
(御覧でない方は、宜しければ2020年6月20日付け「心」をどうぞ)

心というと、意識を連想する。知覚というと、範囲はそれより広く感じる。

知覚は、①眼で見る知覚(眼識)、②耳で聞く知覚(耳識)、③鼻で嗅ぐ知覚(鼻識)、④舌で味わう知覚(舌識)、⑤身体で感じる知覚(身識)、の五に加えて、⑥心で感じる知覚(意識)がある。

知覚には形が無い。私達が感じて、あることが分かる。
知覚は本来純粋で、何ものにも汚されていない。
真水に青インクを入れれば水が青くなるように、トマトジュースを混ぜれば赤くなるように、牛乳を混ぜれば白くなるように、周りの情報、条件によって、知覚はさまざまな様相に変化する。
善くもなるし悪くもなる。

青や赤や白い水を何らかの浄水器にかけるか、蒸留すればまた真水が得られるように、知覚も特定の方法を使って癒したり浄化したりすることによって、本来の明らかさを取り戻すことができる。
だから「俺の心は汚れちまったぜ」と悲観する必要はない。

面白いもので、古代インドにも「穢れは心の本質に染みついてるから、心の汚れを無くせる者はいない。」といってる学派(ミーマーンサー学派)がある。
彼らは更に、「知覚対象は果てしなく多いから全知の存在なんて無い。ならば信じられる真実の言葉だって無い。」という。
悲観的な人々はいつの時代にもいるのだ。

「知覚の汚れ」という時の「汚れ」は、特定の思考と、思考によって染みついた癖だ。
知覚自体は「明らかで知る」という性質でしかないので、五感に関係した知覚は、汚れた知覚にはならない。感覚器官から取り入れた情報をそのまま受け取って、知覚しているからである。
なので、眼で見る色形や、耳で聞く音そのもの等は、有るがままを受け取っていることになる。
厳密にいえば、中間帰謬論証派の説によれば「五感に関係した知覚にも実在の現れがある」というのだが、ややこしいのでここでははしょる。

一方心には、考えずにそのまま受け取る意識(直覚)と、考える意識(思考)と二つある。思考のうち心の平穏を乱すものが、心の汚れになる。
煩悩の定義は、「それが起こったその時から、心が平穏でなくなるもの」(『菩提道次第広論』より)である。
欲や、怒りや、無知や傲慢であるが、不安や、焦り、トラウマ、その他もろもろも当てはまってしまう。

心の不穏を取り除く方法は、一般には瞑想をする、呼吸に意識を集中する等して、頭の中を渦巻いている思考を落ち着かせる。不快な感情を黒い煙にイメージして体外に掃き出し、キラキラした光にあふれた空気を体いっぱいに吸い込んで行渡らせる等がある。
仏教では、心の汚れを取り除くために、無我・空性に焦点を合わせ、とらわれの無い瞑想状態に長くとどまることによって浄化する、というのが王道である。

さて知覚は、心王、心所に分けられるが、これは心の作用を便宜的に区別したものだ。
知覚・心を感じる時、二つが別に感じられるわけではない。
それどころか、一つの知覚には、心王と心所が必ずセットである。
ある様相で働く側(心所)と、それを見ている、感じている側(心王)である。
心所は起こる原因にあわせて良くも悪くもなる。
心所が不穏な方向へ向かえば、心王も同じ方向へ行く。朱に交われば赤くなる、である。
一方、心所がリードして働く怒り等も、対策によって怒りが無くなれば、心王も一緒に怒りが無くなる。

直覚(概念作用でない知覚)も思考(概念作用)も、一つの知覚である。従って心王と心所が両方ある。
そのうち、心を穏やかにするものも、穏やかでなくするものも心所なので、心所には沢山の分類がある。心を平穏でなくする心所は、上記のように、全て思考(概念作用)に含まれる。

心には、もう一つ⓵善、⓶不善、⓷無記(善不善のどちらでもないもの)という分け方もある。
⓵善は、その結果として幸せがやってくる類。⓶不善は、その結果として苦しみがやってくる類。⓷無記=記載無しとは、仏陀の言葉に記されていないという意味で、良いとも悪いともお経に記されていないものである。
なので、幸せになりたければ善心を持ちましょう、ということになる。

「それでは何が善になるの?」といえば、因果の法則の通り、与えたものが自分に返ってくるので、他者を幸せにすればその結果として幸せが巡ってくる「善」となる。
逆に、他者を不幸にすれば自分に不幸が返ってくるので「不善」となる。
現代社会は思考回路が複雑すぎて、良かれと思ってやったことがハズレになることも多々あるが、基本はそういうことだと思ってほしい。

更に、「善」をもってしてもその後で後悔すれば、例えば純粋な動機で高価な贈り物をしたとしても後で『あげなきゃよかった』と後悔すれば、善の力は発揮されず、幸せになることはない。
「不善」をもってしてもその後で悔やみ、心の底から謝れば、例えば盗みを働いたとしても心の底から後悔し、二度とこのような過ちは繰り返さないと誓うならば、大不幸は起こらない。

当たり前のことのように思うが、これらがわざわざテキストに書かれている。

つまらないかもしれないが、次回から五十一心所を大まかに説明しようと思う。
最後まで読んでくれた方、お疲れさまでした。
どうもありがとうね。

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ありがとうございます!幸せが訪れますように!
直子 デチェン
1999年初渡印。2003~2015年インド・ダラムサラ仏教論理大学聴講。現在も殆どヒマラヤの麓、ダラムサラで暮らす。 100円投げ銭サポート募集中!インド自炊で一食分・・・二食分?(^人^)ゞ