『禅定者の(ダルマの)出し惜しみ経』(意訳)

(仏教の四聖諦『四の聖なる真実』について、仏陀と文殊菩薩の会話です。
言葉が反復されて細かく何度も出てくるのは、瞑想をする時の題材を順次述べているのだと、ある先生がおっしゃっていました。
四聖諦(ししょうたい):苦諦『苦しみの真実』・集諦(じったい)『苦しみの原因の真実』・滅諦(めったい)『苦しみが無くなった真実』・道諦(どうたい)『苦しみを無くす為の修行道の真実』)

そして仏陀が、若き文殊にこのように御言葉を賜れた。
「文殊よ。聖なる諸々の真実を正しくあるがままに見ていないので、『間違った生きもの』という心誤った者達は、この清浄ではない輪廻より超越するとはならない。」

そう御言葉を賜れたので、仏陀へ若き文殊がこう申し上げた。
「仏陀よ。何を近く認識することによって、生きもの達が輪廻より超越するとならないのかを教えて下さい。」

仏陀が御言葉を賜れた。
「文殊よ。『我』と、『我がもの』であると認識することによって、生きもの達は輪廻より超越しないのだ。それは何故かといえば、文殊よ。『我』と『他』であると顕かに見た者は、業(カルマ)を実際に行うことになる。
文殊よ。幼子のような聴聞(学び)を具えぬ凡夫は、一切の現象は全く苦しみより超越していると知らぬことによって、『我』と『他』であると認識する。認識してはっきりと愛着するとなる。はっきりと愛着することによって、執着するとなる。嫌悪するとなる。愚かになる。その者は執着し、嫌悪し、愚かになったことによって、身体と言葉と心の三様相の業(カルマ)を実際に行う。その者は、有るのでないものに捏造をしたことによって、『我は好む。』『我は嫌う。』『我は愚かだ。』と思い込む。
その者は如来の教法(ダルマ)に向かい出家し、このように思う。『我は戒律を具える。』『我は梵行を行う。』『我は輪廻より正しく超越するだろう。』『我が涅槃を得るだろう。』『我は諸々の苦しみより解放されるだろう。』と思い分別し、彼は『これらの現象は善である。』『これらの現象は不善である。』『これらの現象は捨て去られるものである。』『これらの現象は実現されるものである。』『苦しみを遍く知ろう。』『苦しみの原因を捨て去ろう。』『(苦しみが無くなった)滅を実現しよう。』『修行道を修そう。』と考える。
それから彼は一切の行いより遠ざかることになる。『一切の行いは無常である。』『一切の行いは、全く燃え盛っている。』と分別する。
そのように分別する者に、悲しみと一緒に、(苦と集について)無様相を経過した作意が生じるとなる。彼は、『これらの現象を遍く知ることは、苦しみを遍く知ることである。』と思う。彼は『我が、苦しみの原因を捨て去ろう。』と思うようになり、これらのものごとによって傷つけられ、殊更恥じ、喜ばず、叱責し、恐れ慄き、全く狼狽することになる。
彼は、『これらのものごとで傷つけられるのは、これらのものごとが実現されたということだ。これは捨てられるべき苦しみの原因である。』と思うようになる。
彼は『(苦しみが無くなった)滅を実現しよう。』と思い、それを二元に考察して滅をはっきりと知るのである。
彼は、『滅を実現したとはこのことだ。』と思う。彼が『我が修行道を修する。』と思い、一人だけで僻地に赴いて、それらの法を何度も考え瞑想するならば、三昧を得ることになるだろう。悲心と一緒になったその作意によって、彼に三昧が生じるだろう。彼は全ての現象に対して心が背くとなり、外に反れ、外に退くことになる。
それらが傷つけ、殊更恥じ、顕かに喜ばぬ心が生じるとなるだろう。
彼は、『私は一切の苦しみから解放されて、また後に如何なる行為も無く、私は阿羅漢となった(解脱を得た)。』と、自分自身で知る。

彼は死ぬ時になって、自身が再び輪廻に生まれると見て、仏陀の境地に疑いと迷いを持つことになる。その者は迷いに落ちて、死んでから諸々の大地獄へ落ちるとなる。それは何故かといえば、斯様に(本来は)生が無い現象を(生があると)分別して、如来に対し、迷いと二心(どちらとも決めかねぬ心)を生じさせる故である。」

それから、仏陀へ若き文殊がこのように申し上げた。
「仏陀よ。四聖諦を如何様に納得するのですか?」

仏陀が御言葉を賜れた。
「文殊よ。一切の行(集まり為すもの)は生じていないと見る者が、苦を遍く知ったのである。一切の現象は起こることが無いと見る者が、集を捨て去ったのである。一切の現象は永久に苦しみより超越したと見る者が、滅を実現したのである。一切の現象は全く生じていないと見る者が、道を修したのである。
文殊よ。そのように四聖諦を見る者は、『これらの現象は善である。』『これらの現象は不善である。』『これらの現象は捨て去られるものである。』『これらの現象は実現されるものである。』『苦を遍く知ろう。』『集を捨て去ろう。』『滅を実現しよう。』『道を修そう。』と考えず、思い込まない。このように、考察される対象であるその現象を、その者が見ていない故である。

幼子である凡夫達は、それらの現象について考察すれば執着するとなる。嫌悪するとなる。愚昧となる。

その者は如何なる現象も取らず、捨てず、そのように不捨不得の者は三界に心が執着するとならない。三界の一切が生じておらず、幻のよう、夢のよう、こだまのように見える。一切の現象はそのような本性を持つと見るので、全ての生きものに対する執着や、怒りと離れることになる。それは何故かといえば、このように、彼がそれに対して執着し、怒るとなるその現象を認識しない故である。
それによって、虚空と等しい心は仏陀をも清浄に見なすことをせず、法(ダルマ)も清浄に見なすことをせず、僧伽も清浄に見なすことをせず、『一切現象は空である。』と見るので、如何なる現象に対しても迷いを生じさせることをしない。迷いが無いことで、(輪廻の生を)近しく取ることは無くなる。近取(近く取られた心身の集積)が無いことによって、(輪廻の来世を)近く取ること無く、完全な涅槃を得る。」


(月称著『顕句論』(蔵語・ゴマン学堂図書館版2015年)第二十四章の引用より)

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