界(かい)を考察する

龍樹著『根本中論』第五章は、「界(元素)を考察する」である。

釈尊は、人を六元素目であると説かれたらしい。
「大王よ。この士夫(者)は第六の界(元素)である。」
(ツォンカパ著『正理の海』第五章より)
と説かれたからである。

第六をどう数えるかというと、
地・水・火・風・虚空・識(知覚)という
第六番目、識(知覚)にあたる。

この言葉にも、仏教学派の多くが、
名付けられた「人」の拠所になる実質を「意識」に置いた理由の一つがあるのではないかと思う。

ここで、仏教の面白いコンセプトを一つ。

「人」「わたし」「あなた」という「者」は、名付けられたもので実質は無い。
仮有であるといわれる。

「人」「わたし」「あなた」という名付けられた者の拠所になっている心身の集合体である蘊(うん)、その中でもピンポイントで意識が、
「人」「わたし」「あなた」の実質にあたる実有であると、中観帰謬論証派以外の仏教の学派でいわれている。

そういわれるもう一つの理由は、
転生を繰り返すのは肉体ではなく、意識になるので、
前世から今世、今世から来世へ行く意識が、「わたし」であると説明されることである。

本題に戻れば、「釈尊が『第六の界(元素)』と言われたからには界(元素)はある。
界があるなら蘊(うん)も處(しょ)も真にある筈だ。」
というのが、仏教徒である対論者の主張である。

この「真に」=「真実として」が、空性の否定対象である。

真実としてあるなら、何ものにも依拠する必要なく、関係する必要なく、
ただそれだけで独立して存在できる筈である。
「そのもの」とはそういうものだからだ。

しかし、その「そのもの」が無いことを証明する議論が、ここでもなされている。

対論者の考える世界のあり方の基礎として、
存在するものは全て、正しい定義がある。
なので、存在するものは全て、定義か定義されるもの、あるいは定義の拠所である必要がある。

その見解の中で、定義と定義されるものは真実として存在していない(実在していない)という方向に話が進む。

わかりやすい理屈は、
定義があれば、被定義項(定義されるもの)があり、
被定義項があれば、定義がある、
という理論である。

ここで、定義と定義されるものが実在するなら、定義されるものは定義の前にあるか、同時にあるか、定義の後であるかの何れかになる。      この実在を否定する為に、先ず「定義の前に定義されるものがあるなら」という仮定で話が始まる。

定義が存在する前に、定義されるものがあれば、
「この定義されるものの定義は、これである。」と言うことができる。
しかし、定義が無ければ、定義されるものもあり得ない。

定義の前に定義されるものがあれば、その「定義されるもの」は、定義の無い定義されるものになる。
でも、「定義の無いものごとは、何も何処にもあるのではない。」

・・・中略・・・

定義と被定義項あり方について論争がされるが、
結局のところ、
「定義と被定義項は相互関係が有る。
相互関係が有るものは、独立して存在しているものではないので、
実在していない。」
という主旨に落ち着く。

虚空を、対論者の毘婆沙部以外の学派は無事物(変化しないものごと)であるというが、
毘婆沙部は事物(働きを為すことができるもの)であるという。
これは、存在するものは全て事物であるという毘婆沙部の見解からである。

どちらにせよ虚空は、
事物としても、無事物としても、
定義されるものとしても、定義としても、
実在するのではないという結論に達する。

それと同じように、地・水・火・風・識も実在しないけれど、
小心者は、ものごとを実在する有か無であると思い込むので、
解脱することはできません。
という落ちがつく。


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