開いているドア

「昔はドアに鍵なんかかけなかった。最近になって外から人が入ってきて、物が無くなるようになった。だから鍵をかけるようになった。」
昔、ラダックからの同級生が言っていたと思う。
田舎の人々は純朴で親切で、泊めて欲しいと言ったら泊めてくれるし、お金を払うと言っても受け取らない、と言っていた。

チベット本土から来た先生も、いつか言っていた。
「本土で巡礼に行く時には、お金が無くても何とかなる。巡礼に行くと言えば家に泊めてくれるし、お茶とツァンパ(麦焦し)くらいは何処でももらえる。パルコル(ラサ市中心部の参道)の物乞いだって、まず飢え死にすることはない。沢山の人が食べ物を配りに来るからね。」
これも一昔前の話になってしまった。

筆者がチベットの人々の中で生活を始めて、初めての経験の一つに、ドアに鍵をかけない、というのがある。ドアを開け放ち、室内が見えないようにドア用の布を下げておく。
僧院の中や集団生活をする寮内での話であるが、慣れるまで少し時間がかかった。

日本人は部屋に入る前に声をかけるし、鍵がかかっていようといまいと、ノックする習慣がある。
チベット人は、知り合いであれば、何も言わずバッとドア暖簾をはらっていきなり入って来る。来られた側も当たり前である。顔をあげて確認するだけだ。
この、「中にいる人に断りを入れず、当たり前のように中に入る」ということができた時、筆者は結構嬉しくなったものである。

他者を当たり前のように受け入れる生活習慣は、筆者の知らないものであった。

以前ある先生が、「ラダックの尼僧院の僧院長をしていた時には、院長室に一度も鍵をかけたことが無い」とダライ・ラマ法王に話した時、とても喜んでおられたと人伝えで聞いた。
その尼僧院長をされていたお年寄りの先生は、ラダックの田舎の尼僧院で、七年間尼さん達に仏教哲学を教えておられたそうだ。他にも何か困ったことがあればすぐ相談に乗れるように、ドアをいつも開けておいたそうである。

南インド・バラクッペに、ナムドルリンというチベット仏教ニンマ派の大きな僧院があるが、開設者のペノル・リンポチェも、常に院長室の扉を開けていたと聞く。
誰でも入って来られるように。

まぁ、安心し過ぎて失敗をすることもある。
二十年程まえ、法話会があって南インドの僧院を訪れていた時のことである。
筆者はスイス人の女性と続きの部屋に泊めてもらっていた。入り口側の部屋にスイス人の女性が入り、筆者は奥の部屋だった。
僧寮の中なので安心をして、ある日の夕方、彼女はドアの鍵をかけずに瞑想をしていた。
その時、恐らくインドの村人がそうっとドアを開けて、ドアの近くに引っ掛けてあった彼女のカバンを持って行ってしまったのだ。
その中には財布や小型テープレコーダーが入っていたので、大騒ぎになった。
彼女は室内にいたのだが、全く気付かなかったそうである。
後に、金目のものだけ抜き取られたカバンが道路脇で見つかったそうだ。

筆者もダラムサラの自室で、玄関に鍵をかけずにトイレに入ってしまい、出てきた時には携帯が無かった、ということを経験している。

そんなわけで、気を付けてドアを閉めるようになった。
当たり前のことであるが、身を守る為である。
世の中の人々も、その為にドアを閉める。

が、何だか窮屈である。
もともと広くて明るいところが好きなので、筆者の部屋の窓はカーテン開けっ放し。
こちらは良いが、向いの部屋が恥ずかしいのかカーテンを引いている。
開けておく部分と閉めなければいけない部分の、バランスのとり方が難しい。
心のあり方と全く同じである。

いつも開いているドアを見て、安心を得ていた人は多かっただろう。
実際に中には入らなくとも、いつでも入れるという安心感は、心の支えになる。

全てを受け入れられる度量をもって、ドアを開けたままにしておく。
大きな心を持っている印だ。


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