ゲシェ・ダワ ラー

今日南インドで、昔ライブラリーでお世話になった先生が亡くなられた。
ゲシェ・ダワ ラーだ。
「ラー」はチベット語で敬称を表す。
筆者が初めてインド・ダラムサラに来て、最初の先生が4ヶ月ほどで亡くなられた後、亡くなられた先生の友人がライブラリーで先生をしておられると聞いて、授業に行き始めた。仏教クラスの先生の1人が、ゲシェ・ダワ ラーであった。

チベタン・ライブラリーはダラムサラの公共図書館で、外国人がチベット語や仏教を学ぶことのできる、インド政府に認可されている研究施設である。

ゲシェラーは朝9時からの授業を担当していた。
11時からもう1コマ仏教クラスがあったが、そちらは先生と通訳さんのコンビが絶妙で、教室から生徒が溢れる程であった。
ゲシェラーのクラスはやや生徒が少なかったが、先生の独特な雰囲気で、コアなファンが多かったように思う。

後から聞いた話であるが、ゲシェラーは1959年に亡命してこられたバクサ組である。
バクサとは、最初にチベット僧達がインドに亡命してきた時、アッサム滞在の後でインド政府から与えられた、チベット僧の為の集団生活施設(編集:僧、尼僧、在家男女も一緒におられたそうだ。後に在家の人々は道路開拓に北西インドに送られる。僧侶は8年程その場に留まり生活された。インドの刑務所跡地であったが、そこにお経や法具も集まり、僧院の様な生活をなさっていた。)があった場所の名前である。
バクサの後、南インド・カルナタカ州マイソール・バラクッペと、西のムンドゴッドに僧院用の敷地が与えられた。
ゲシェラーはガンデン僧院出身であられたので、ガンデン僧院を再建するために、友人達と共にムンドゴッドへ向かった。

学僧時代、ゲシェラーはかなり辛辣だったらしい。
当時3大僧院の中でも、問答で「口の悪い3人」の1人に数えられていたそうだ。

でも仏教哲学についての研鑽は素晴らしく、ダライ・ラマ法王直轄のナムギャル僧院の仏教学の先生として、南インドからダラムサラへ来られた。
ナムギャル僧院のシニア僧は、彼を「俺達の先生」と呼んでいた。

その後、ゲシェラーはご自身の代わりにガンデン僧院から他のゲシェラー(筆者の最初の先生)を呼び、ご自身はライブラリーに居を移した。
ライブラリーで1時間のクラスを持ちながら、ナムギャル僧院の試験官を長年務められた。ライブラリーの近くのネチュン寺の先生もされていた。
チベット人が所属するインド軍の、仏教の先生もなさったと聞いている。
その後ナムギャル僧院の僧院長を務められ、南インドのガンデン僧院に戻られた。
ご自身が所属する寮も大きく建て替えられ、自分はもう何も心配することはないとおっしゃっていた。

ゲシェラーは一種独特な、達観したようなところがあった。
優しいという訳でもなかった。
馬が好きで、ライブラリーに居られた時の先生の部屋(小さな細長い部屋だった)の壁には、こちらに向かって走ってくる白馬の、大きな写真が貼られていた。
南インドのお部屋にもあったような気がする。

口が悪い、というか思ったことをそのまま口に出す性質は、ライブラリーの授業でも現れた。
ある日の授業は、菩提心(『皆を幸せにする為に、自分が修行して仏陀の境地を得よう!』と思う心)を生じさせる方法の第一段階として、母の恩を思い出す、というものであった。授業の最後の質疑応答の時、外国人生徒が質問をした。
「現代社会では、子どもに愛情を注がない母親もいます。母親から愛されていない場合はどうしたら良いんですか?」
通訳さんから質問内容を聞いたゲシェラーは、
「そんな下品な考え方をしてどうする!」
と言った。
通訳さんはそれを訳さなかった。

またある時、仏道修行には信仰が大切であるという話であった。
質問があったのかテキストに書いてあったのか思い出せないが、信仰対象にあたるラマを全面的に受け入れるという話であった。
ラマの為したことならば、何でも受け入れる。
果ては排泄物であっても頂くのかという時、「法王の小水だったら、俺は飲むよ。」と当たり前のように言っていた。

ある日、筆者は何かの節目で、授業の前にお礼の気持ちを込めてゲシェラーにカタ(縁結びをお願いする白いスカーフ状の布)を差し上げた。
ゲシェラーはそのカタを、青空に向かって振った。
「皆にかかるように。」とおっしゃった。
筆者は覚えたばかりのチベット語で「虹みたいです。」と言った。

以前筆者は、1959年前後に亡命された先生方の体験談を聞いてくれとある人に頼まれ、数人の先生方から話を聞いた。その折に、ゲシェラーの所にも伺った。

その時は名付け親の先生のところにお世話になっており、先生とゲシェラーは同期で仲良しだったので、「行ってきます。」と挨拶をしてゲシェラーの所へ向かった。
もう引退をしてゆっくり生活されており、「ひゃっひゃっ」と笑っていたが、驚くほどはっきりと昔のことを覚えておられた。流石である。

ゲシェラーがお坊さんになった時の話をうかがった。
その時、ご実家に呪いがかけられたのか、数年の間にご家族が次々と亡くなられたそうだ。熱が出てお兄さんが死に、お父さんが死に、おじさんが死に、井戸に何か悪いものが入れられたのか、向こう三軒両隣には何事もなく、1軒だけに不幸が続いたのだそうだ。ご近所の人々は怖がって付き合いをやめ、最後にはお坊さんになる前のゲシェラーと、体の弱ったお母さんと、お姉さんかおばさんの3人しか残らなかった。
その時に、ゲシェラーは「生きてたって何の意味も無い。」出離の心を起こし、家を出たというのである。
「?ご家族に何か言ってきましたか?」
「いいや、なにも言ってない。そのままラサのガンデンへ行った。」
『えっ?病気で弱ったお母さんはどうしたの?』
と筆者は思ったが口には出さなかった。
ゲシェラーは余りにもあっけらかんとしていたので、悲惨な話のはずが逆に笑ってしまうのである。

その後、インドに来てからの経験も、短い時間だったが面白く話して下さった。
名付け親の先生が、南インドに来たばかりの時に結核にかかって、しばらく入院していたとも教えてくれた。お兄さんに当たる「筆者の最初の先生」は、元気だったそうである。
名付け親の先生のところへ帰って、「先生が昔結核で入院したって言ってました。」と言うと、ぎろっと睨んで「お前ら何話してたんだ?」と言われた。

ゲシェラーにはチベット人、外国人を問わず、生徒がとても多かった。
生徒は慕っていたが、ゲシェラーご自身は1人でいることを好んでおられたように思う。
今は「ひゃっひゃっ」と笑って、法要をしているお坊さん達を見ておられるだろう。
そして、軽々と次のステージに向かわれるに違いない。

ゲシェラ-、お世話になりました。ありがとうございました。

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