『聖稲稈(せいとうかん)経(きょう)』抜粋②

そのように、これら縁起生の十二支分は、他々なる因より起こり、他々なる縁より起こり、恒常ではなく無常ではなく、有為でなく無為でなく、無因でなく無縁でなく、経験者が有るのではなく、尽きた法(現象)ではなく、壊れる法(現象)ではなく、滅す法(現象)ではなく、無始の時から入り込んだ途切れることない川の流れの如く、累々と続く。

それら縁起生の十二支分は、他々なる因より起こり、他々なる縁より起こり、恒常ではなく無常ではなく、有為でなく無意でなく、無因でなく無縁でなく、経験者が有るのではなく、尽きる法(現象)ではなく、壊れる法(現象)ではなく、滅す法(現象)ではなく、無始の時から入り込み、途絶えることなく川の流れの如く累々と入り込みはしたけれども、しかしながらこれらの四支分は、縁起生のそれら十二支分を収める故に、因となる。

(その)四支分はなにかといえば、これであり、無明と愛と、業と識である。

そこで識とは、種子の本性そのものである因を為す。業は、田畑の本性である因を為す。無明と愛は、煩悩の本性である因を為す。

諸々の業と煩悩によって、種子である識が生じさせられる。

そこで業とは、種子である識の畑の働きを為す。

愛が、種子である識を潤す働きを為す。

無明が、種子である識を植え、これらの縁が無ければ識である種子が顕現して成立するとはならない。

そこで業も、こう「我が種子である識の畑の働きを為そう。」と思わない。
愛も「我が種子である識を潤そう。」と思わない。
無明も「我が種子である識を植えよう。」と思わない。
種子である識も「我はこれらの縁によって生じさせられる。」と思わない。

しかしながら種子である識は業の畑に依拠し、愛の湿潤によって潤され、無明によって良く植えられたことより生じる。

然れば、それやそれの生まれる所に受胎すれば、母の子宮において名と色の芽を顕現して成す。

その名色の芽も、我が為しておらず、他が為しておらず、自他二者が為しておらず、自在天が為しておらず、時が変化させておらず、本性より起こっておらず、一因に頼るのでなく、無因よりも生じていない。
しかしながら父母が会合し、月経を具え他の縁も集まったならば、虚空に等しい、執すること無く我がものとして無い、所有者の無い法(現象)は、幻の性相である本性において諸々の因縁が揃わぬことが無い故に、それやそれの生まれる所へ受胎する。
然れば、母の子宮において経験を味わうことのできる種子である識は、名と色の芽を顕現して成す。

このように、眼の識は五因より起こり、五は何かといえば、こうであり、眼に依拠したことと、形色と、光と、空間と、それが生じさせられる作意にも依拠して、眼識が起こる。

そこで眼は、眼識の拠所の働きを為す。
形色は、眼識の対象の働きを為す。
光は、顕かにする働きを為す。
空間は、遮らない働きを為す。
それが生じさせられる作意は、思う働きを為す。

それらの縁が無ければ眼識は起こるとはならないが、ある時に眼の内處である眼が不備とならず、その如く諸々の形色と光と空間とそれが生じさせられる作意が不備とならず、一切が集まったことより眼識が起こるとなる。

そこで眼は、こう「我が眼識の拠所の働きを為そう。」と思わない。
形色も「我が眼識の対象の働きを為そう。」と思わない。
光も「我が眼識の顕かにする働きを為そう。」と思わない。
空間も「我が眼識の遮らない働きを為そう。」と思わない。
それが生じさせられる作意も「我が眼識の思の働きを為そう。」と思わない。
眼識も「我はこれらの縁によって生じさせられた。」と思わず、しかしながらこれらの縁が有ることより眼識は生じるとなる。

その如く、残りの根(感覚器官)と共にある諸々もそれぞれの場合に合わせる。

そこで、如何なる法(現象)もこの世間よりあちらの世間へと勿論移行はしないけれども、諸々の因と縁は不足が無い故に、業の果として顕現も有る。

このように、例えば良く拭いた鏡面に顔の映像が映ることも、勿論顔が鏡面に移ったのではないけれども、因と縁は不足が無い故に、顔としての顕現も有る。
その如く、ここよりも誰も死に移ることは無いが、他にも生まれておらず、諸々の因と縁は不足が無い故に、業の果としての顕現も有る。

このように、例えば月輪は四万由旬の上を行き、しかしながら水で満ちた小さな器に月輪の映像が映ることも、月輪はそのありかより移らず、水で満ちた小さな器の中に来たのでもないけれど、諸々の因と縁は不足が無い故に、月輪としての顕現も有る。
その如く、ここよりも誰も死に移ることは無いが、他へと勿論生まれてはいないけれど、諸々の因と縁は不足が無い故に、業の果としての顕現も有る。

このように、例えばその火は因と縁が揃わなければ燃えないけれど、因と縁が集まることより燃える。
その如く諸法(現象)は、幻の性相の本性であり、虚空と等しく、執すること無く、我がもの無く、所有者の無い法(現象)において、諸々の因と縁は不足が無い故である。

それやそれの生まれる所へ受胎するならば、母の子宮において、種子である識は、諸々の業と煩悩によって生じさせられる名と色の芽を顕現して成し、そこで内の縁起生は五つに見られる。

五は何かといえば、恒常としてではないことと、断滅としてではないことと、移行するものとしてではないことと、小さな因より大きな果が起こることと、それに類似した継続としてである。

「如何様に恒常としてではないのか」といえば、何故ならば最後に死ぬ諸蘊も別他であるが、生の部分に当たる諸蘊も別他であり、最後に死ぬ蘊であるそれ自体が、生の部分に当たるものではない。しかし、最後に死ぬ諸蘊も、滅したまさしくその時に、生の部分に当たる諸蘊が起こるので、それ故に恒常としてではない。

「如何様に断滅としてではないのか」といえば、最後に死ぬ時の諸蘊は以前に滅したものから生の部分に当たる諸蘊が起こるのではないが、滅していないものからでもない。しかし、最後に死ぬ諸蘊も滅すが、まさしくその時に生の部分に当たる諸蘊が、天秤棒の(左右の)上下の如く起こるとなり、それ故に、断滅としてでもない。

「如何様に移行ではないのか」といえば、異なった種類の諸衆生が、同類の生へと生を実現しないことである。それ故に、移行するものとしてでもない。

「如何様に小さな因より大きな果が起こるのか」といえば、小さな業を為したことより異熟した大きな果を経験し、それ故に、小さな因より大きな果が起こるのである。
経験することになる業を為したように、経験することになる異熟を経験する故に、「それに類似した継続としてである。」

(『顕句論』ゴマン学堂図書館2015年版より引用)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?