会合を考察する

龍樹著『根本中論』第十四章は、「会合を考察する」である。

「会合」としたのは苦肉の訳で、
直訳は「会った(’phrad pa)」「めぐり会った」。
複数のものごとが一同に会する意味の、動詞の過去形である。

日本語で「会合」と書くと、人々が集まることを指すのだが、
ここでは人に限らず、関わりのあるものごとが一つの働きを為す為に集まったことをいう。

前章(第13章)で、事物が本性として成立したことを否定し、
その後対論者が、「そうはいっても事物は本性としてある。何故ならば○○だからだ。」という理由○○を否定することが、本章から始まる。
これは、本章を含めて四章続く。

本章の内容は「会合が本性として有ることを否定する」という項名で示されるように、
ものごとの実在を証明するための理由として提示された「会合」の実在を否定するのであるが、
対論者の挙げた「会合」が実在する理由は、「釈尊がそうおっしゃったから」である。

部派仏教の対論者は、本当に忠実に釈尊の教えを重んじる。
ある意味、中観派の方が独立心旺盛で、「先生はこういってたけど、考えてみたらこうだった」という元気の良い生徒が多いような気がする。

拝読する側からいえば、好みは分かれるだろう。

前述したように、本章での「会合」は人間についてではなく、例えば
①視られる対象:色形
②視るもの(ツール):眼
③視る者:眼識(眼と直接に関わる知覚)
の三つが、「色形を知覚する」という一つの働きをなす為に一同に会すことをいう。

この例で、行為の対象と、行為するもの(ツール)と、行為者の三つが当てはまる全てのものごとを説明しようとしている。

ここで「視る者」に「眼識」を当てているのは、対論者と共通の視点で話しを進めないと、論争の基盤が崩れる故であり
(対論者が「あんたの言ってる『視る者』は、それじゃない」と別の論争が始まってしまう)、

対論者は「視る者」というプトガラは仮有であるとしても、その実質は識(知覚の主体的部分である心王)であると承認していることがうかがえる。

釈尊が説かれた(だから実在する)「会合」を考察するのではあるが、
その方法も、「会合は、それぞれ別他として存在するものが会合するものだ」というコンセプトに立って、
実在する「他」が無いから、会合は実在しない。
という論法から自説の論理展開が始まる。

それも前章で何度か説かれたように、
実在する「他」であれば、その本性は全く無関係になるものなので、
因果においても当てはまらないし、
同じ働きをなす為に集まるものにも当てはまらないし、

更には「他」と名付ける為には、「他」になる相手がいなければ「他」になり得ないので、相手がいなければ成り立たない故に、
「他」そのもの、実在する「他」は無い。
という論法で、

「他」自体が何かに関わって他なので、他そのものでないという、直線的思考ではすっきりしない(でも道理のある)論理が展開される。

頭の良い方々だなぁと思う。

集まる要素(ものごと)それぞれの他性について考察された後、
それらの要素が同一か、別か等も考察の対象となっていく。

複数の要素が集まる「会合」を考察したことを応用して、
或る主体が何か他のものごとを具える「具有」と、
複数の要素が集められた「収集」と、
複数のものごとが集まった「集合」についても(読者自らが)考える。

そして、
「それらが実在したならば、それらを設けることができないので、
それらの実在が無いことで、全ての構成が非常にうまく成り立つという、
世俗と勝義のあり方に確信を持ちなさい。」
というツォンカパ大師のアドバイスで、
『正理の海』第十四章は終わる。


『根本中論』『ブッダパーリタ』『顕句論』『正理の海』第13・14章、2月18日公開予定です。

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