ツォンカパ著『密意解明』一部抜粋(意訳)

ここで、本派(中観自立論証派)が「一切法が幻の如く現れる現れ方」を要約して易しく述べれば、

知覚対象において、事物として有るか、無いかと限定したうちの前者である、事物(として有ること)について述べれば、

事物においては有形であるか、そうでないかの二つに限定される。
有形については、東など方向としての部分が無いもの(微塵)と、
(形が無い)知覚については、時間的な前後の部分が無いもの(単一刹那の知覚)が否定されることは、他で説かれたようにされるが、
(それによって)事物において、全てが部分を持つと論証せられる。

そして、「部分」と「部分を持つもの」の二つともが別本質であれば無関係になる理由によって(それを)否定し、同一本質であると示される。
その時、そこに心意を如何様に向けようとも、あり様は同一本質でありながらも、現れ方において別本質として映ることは歪曲のしようが無いので、

幻の如く、

そう現れることと、それが欠如する、
二つの集合状態であると決定する。

そして、そのようなそれは、心に現れたこと(影響力)によって設けられた、偽りのあり方においては矛盾が無いけれども、
その拠所が、心に現れたことによって設けられたのではないあり方であれば、全く正しくない。
(何故ならば)前述した実在において、留まり方(あり方)と現れ方が合致しないことはあり得ない故であり、
真実として成立した(実在した)ならば、一切の様相において偽りを捨て去り留まらなければならない故と、
(「部分」と「部分を持つもの」が)別本質として現れたその心は、誤りなく作用している必要があるので、
同一本質であることを害する故である。

それが成立したならば、諸々の無事物が真実として成立した(実在した)ことも、その正理によって否定することができる。

無為の虚空についても、一部の有形に行き渡ると承認しなければならないが、それにも「東に行き渡る部分」と、「他の方向に行き渡る部分」を承認しなければならない。
その如く、法性についても、多くの行き渡る部分と、別となった(時間的に)前後する心が了解した多くの別部分があり、他の無為もそれに似ている。

従って、多くの「部分」と「部分を持つもの」の二つが別本質であることは適わぬので、同一本質であり、

それが、(同一本質でありながら別本質として映るという)偽りであるものに、自らの実在は適わぬので、

先の如く否定したことによって、一切の知覚対象は「真実が無い(非実在)」であると成立する。

そのようにすることは寂護(シャーンティラクシタ)師弟の説明であるので、「部分」と「部分を持つもの」を事物のみに推し量るのは、
劣った知恵による過失である。

学説によって心が変化させられていない者(一般人)に公認された偽りとは、中観派が主張する偽りとは意味が違うので、「心によって設けられた」としても、彼らに公認されたようなものである。
自派においては、ただそれだけを「心によって設けられた」とは主張しない。
そのようであれば、心に現れたことによって設けられたのではないあり方は無いけれど、                            名称として付けられただけではない、その影響力によって設けられた一つのあり方が有ることは、この派(中観自立論証派)にとっては矛盾しないので、
二つの中観派の否定対象について、認識面に大きな違いがでる。

現在のプトガラ(者)について、この派(中観自立論証派)の実在と実在視についての認知と、それを否定する要約した正理によく導いて、
そのもとで帰謬論証派の説が示されれば、見解の見極め方が良く開かれると見て、ここで解説した。

『密意解明』ツォンカパ著
第六章「中観自立論証派の実在視を認知する」最終部分より。


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