言葉の意味

普段はあまり気にならないが、特定の内容について説明しなければならない時、言葉の意味を確認しなければならなくなる。

目に見えるものを指さして、
「これは○○。」「あれは□□。」
という時は、目の前に現物があるから、言葉の意味を理解することは易しい。
というか、「言葉」と「言葉で表されるもの」の関係を理解することが易しい。

ややこしいのは、目で見たり、音で聞こえたりしないものを、言葉で表現する時である。
更に専門用語等になると、音だけ聞いても漢字でなんて書けば良いのか分からない、ということもある。

言葉というものは、使うほどに「言葉」と「言葉の意味するもの」が結び付いてくる。
使えば使うほど、ある言葉を聞いて、自然にその意味が連想されてくる。

使わなければ、実際目に見えるものであっても名前を忘れる。

骨折した時に石膏で患部を固める○○〇というものがあるが、インドではそれをプラスターという。
転んだりぶつけたりして骨折する人が多いインドであるが、彼らと話しているとプラスター、プラスターと連呼する。
『日本ではその名前ではなかった・・・(でも思い出せない)』
とずっと考えていた筆者であったが、ある日、日本人の友達とこれが話題になった。
彼女もこの名詞が思い出せなかった。

長いこと使っていないと、言葉は忘れる。

「大リーグ養成」という言葉で「ギプス」と思い出したが、星飛雄馬がいなければ、ギプスは思い出せなかっただろう。

これは、意味を覚えていても名詞(音声)を思い出せなかった例であるが、
その言葉自体に慣れていないと、「思い出せない」ともいえない。
この言葉どっかで見たことがある・・・
程度では、言葉は自分のものではない。

更にこの状態で、一つの言葉に複数の意味があったらどうなるだろうか?
対話している人々が、一つの言葉の意味をそれぞれ違う意味で使っていたら?

誤解が誤解を生み、収拾がつかなくなってしまう。

そんなわけで、特に問答と関係するテキストの中では、言葉の定義というものを大切にする。
共有された認識にしたがって、討論をする。

しかしながら、テキスト上では共通の認識が何なのかは記されておらず、
異なった意味の解釈も記されておらず、
『みんな知ってるでしょ?』
とでもいうように、ただ延々と問答や説明が続く。

筆者が今関わっているのは、そういうテキストである。

実際、龍樹も仏護も月称もツォンカパも、ご存命当時のトップスカラーである。
そうでなければ、現在まで彼らの著された論書の数々が読み続けられることはなかっただろう。

しかしながら、いきなり大学の研究院や、哲学研究所の機関紙のような内容を目にしても、理解が難しいというのも、正直なところだ。

『根本中論』『仏護』『顕句論』『正理の海』は、一般のゲルク派僧院でお坊さん達が勉強する、中観の基本テキストには入っていない。

お坊さん達は、『入中論(dbu ma la ‘jug pa)』『入中論自註(’jug pa rang ‘grel)』と、
ツォンカパの『密意解明(dgongs pa rab gsal)』をメインにして(ゲルク派の場合)、
それぞれの僧院で縁のあるテキストを使いながら、中観を勉強する。

『根本中論』等は、特別に学びたいという有志の師弟が基本科目とは別に学ぶもので、結構上級者向きのテキストである。
ある先生は、『正理の海』の授業を受けるに当たり、生徒に『根本中論』暗記を義務付けたといわれる。そうでないと解らないから、ということで。

根本テキストはそれほど長くはないけれど、解説が超長く複雑なのは、第一章である。
帰敬偈は、縁起生の主だった八つの特性を述べているので、法話会の折などによく唱えられるが、第一章の内容の解説は、一般の法話会でははしょられる。
一般の人々が、普段考えていることとリンクしない故である。

多く法話を説かれる高僧方は、『根本中論』の第二十六章から入る方々が多い。
輪廻のあり方と、どうすれば輪廻から離れることができるかを説かれた部分だからである。

その後で、第二十四章で仏教の基本の教え「四聖諦」や、
第二十二章で、如来を考察しながら、その言葉を自分自身に当てはめて無我を考察したり、
第十八章で「無我」という時の否定対象になる「我」とは何か?等を考察したりする。

他にも、全二十七章色々あるけれど、第一章は一般法話であんまり出てこない。
一般社会ではマイナー過ぎるのである。

でも、中観の難題の一つ、「背理を反転させる(thal bdzlog)」が出てくるのが第一章。
清弁の中観自立論証派の見解と、仏護、月称の中観帰謬論証派の見解がはっきりと見える、一種のハイライトである。

ものごとの本質、あるべき様相を説く清弁と、
ものごとの本質そのものは無いのだ、という仏護と月称の見解の違いが最も如実に表れる場面である。

ただ、この話には因明論の基礎知識が必要なので、因明論の言葉や、考え方に慣れていない人には、何故この問答がされるのか自体が解らない。

また全編を通して、『根本中論』の対論者は主に毘婆沙部なので、彼らの使う言葉の意味や使い方も、慣れていなければ、何をどうしてこう言っているのかが解らない。

例えば、「事物(dngos po)」という同じ言葉でも、
毘婆沙部では、恒常と無常全てを包含する、存在するもの全てを表す言葉で、時には「実在」も表す言葉だけれど、
経量部以上になると存在するものの中でも、一瞬一瞬変化する無常にしか当てはまらない。

似たような事例で、「無我」の場合、否定対象の「我」を、
パーリ語法統の学派(毘婆沙部と経量部)では人に関わる否定対象にしか当てはめないので、「人無我」だけしか承認しない。
サンスクリット語法統の学派(唯識派、中観派)では否定対象全てに当てはめるので、人だけではなく、他の現象も無我であるという「法無我」をも承認する。

言葉の解釈が違ったことで、見解の違いが出てくる例である。

明日、『顕句論』と『正理の海』の中編②を公開する。
『根本中論』と『ブッダパーリタ』には無い部分で、註釈が重なるうえで出てきた見解の違いについての問答が多い。

慣れない言葉も多いと思うけれど、パズルの一種だと思って読んでみてほしい。
どの言葉に慣れていないのかも、知らせて頂ければ幸いである。



DECHEN
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釈尊、龍樹達が説かれた「中の思想」を、チベットに伝わる仏教テキストから紹介するサイトです。

「ダウンロード(中観)」→『根本中論』『ブッダパーリタ』『顕句論』『正理の海』第1章前編・中編(後二論書は①)公開中。
『顕句論』『正理の海』の第1章中編②は、明日(10月21日)公開予定です。
中の思想を明らかにするテキストの代表作、『根本中論』と、その主要な註釈である『ブッダパーリタ』『顕句論』『正理の海』の三論書。

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