空性を悟ったら?

「これらすべての支分は、成就者(仏陀)が智慧の為に説かれた。
それ故に諸々の苦しみを、寂滅させたい者は、智慧を生じさせよ。」
(寂天著『入菩薩行論』第9章1偈)

この言葉は、サンスクリット法統の仏教実践書の王者『入菩薩行論』の智慧の章の冒頭に出てくる韻文である。
それまで菩提心やその他の実践を詳しく説かれ、その後で、
「今まで書いてきたことは全部、空性を悟る智慧の為に説かれたことなのです。」
と言っている。

ここで「智慧」と訳される言葉は、チベット語で「シェラブ(shes rab)」といい、主には空性を悟る知覚に当てられる。
これには直接に空性を悟る意識と、概念作用を通して空性を了解する意識と二つともが含まれる。

時に、チベット語で「イェシェ(ye shes)」という言葉も「智慧」と訳されるが、こちらは空性を直接知覚したことがある意識で、空性だけではなく、他の世俗的なものごとも対象とする。例えば「仏陀の智慧」という場合。
マニアックな話である。

さて、空性を悟る智慧がどれくらい大切かというと、修行のステージを上がって行く為には無くてはならないものである。
何故かというと、空性をどれくらい悟っているかで、修行道の段階が決まってくる故である。

入門は、
声聞(先生に依拠して、自分一人だけ解脱を得る者)、
独覚(最終的に解脱を得る時には、他の人に頼らず、独りで覚醒〈解脱+α〉を得る者)、菩薩(生きもの全てが仏陀の境地を得る為に、私が頑張って仏陀の境地を目指す者)の、それぞれの修行の結果を求める心の底からの希求があればできるのだが、
その後の心のステップアップには、本人がどのくらい空性を悟っているかが関わってくる。

それも、全く知らない所から始めるので(若年ながらも空性を悟っている人は、前世で既に勉強してきたと見なされる)、先ず
①師匠から空性について学び正しく理解する智慧が一つ。
②教わって理解したことを何度も何度も考えて、『これしかない!』と確信を持つ智慧が一つ。
③確信を得た(正しい)空性を、安定した(三昧状態の)意識で更に分析瞑想する概念作用と共にある智慧と、更に瞑想を進めて、空性を直接悟る智慧の三種がある。

この①②③が、(空性についてとは限らないけれど)「聞思修の智慧」といわれるものである。

皆が憧れるのは、やっぱり空性を直接悟ることである。

空性を悟るとどうなるのかというと、(最終的には)実体視が無くなる。
実体視が無くなるだけではなく、実体視が私達の心に沁みつけてきた習慣(実体の現れ)も、全てなくなる。

実体視は概念作用である。意識であり、知覚であり、認識主体である。
認識主体があるからには、それに対する認識対象がある。
この認識対象に当たるものが、実体・実在の現れである。

空性を悟ると、この実体視と、実体視に映る実体の現れ(実在の現れ)が消えて行く。
「実体の現れ」とは、「ホントにある」という現れである。

何故消えて行くのかというと、空性を悟る智慧とは、
実体視と全く逆の捉え方をする意識だからである。

例えば、Aさんを悪い人だとずっと思い込んでいる心があるとして、
それは思い違いであったと分かり、
『Aさんは善い人である』と思えば、
『Aさんは悪い人だ』という思いが無くなるが如くである。

実体視はどのようにものごとを見ているのかといえば、
「自分が見ているように、ものごとはある。」と見ている。

ここで難しいのは、実体視は余りにも当たり前に私達の心に混ざり込んでいるので、何処が実体視なのか判別がつかないところである。
見るもの全てを、薄い透明なビニールの膜(実体視)を通して見ているようなものである。
この膜にかかると、知覚されるものは何でも、「これ!」と個別に指差せるようなものとして見える。

本来は様々な条件が集まって、留まることなく変化し続けるものを、
「これ!」という何か「存在そのもの」として捉えて、
それを判断したり、思い込みを付け加えたり、それに対して好き嫌いの感情を起こしたりする。

「そのもの」として映る実体の現れは、空性を直接悟っていない全ての知覚に現れる。
「私達の知覚には、いつも実体の現れがある」ということだ。
全部にカバーがかかっているので、このカバーが無くなった状態を想像するのは難しい。

空性を直接に悟る時にどういう心の状態になるのかというと、
有の現れが無くなる。
実際に修行をする人々は、自分の心の空性を悟るので、
先ず、純粋な自分の心(特定の様相になっていない、知覚しているだけの意識)を感じて、その心が自分に感じられているように有るのではないと悟る。
自分が感じている知覚の感覚を覚えておいて、
実際に一瞬一瞬変化していく(捉えどころのない)意識を感じて、先程感じていた意識は、感じられるように有るのではないことを知る。
そうすると、知覚の現れが無くなり、主体も客体もない虚空のような状態に心がなるらしい。
これを「虚空のような等引(空性を直覚する瞑想状態の智慧)」という。

空性を直接悟っている時は、心に何の現れも無いので、真っ白い画用紙のような状態である。
瞑想から覚めると、いろいろな現れが目に入って(知覚されて)くる。
白い画用紙に、色々な絵が描かれた状態である。

でも、さっき真っ白だったことを知っているので、今目の前に見ているものは幻のようなものだと、瞑想から覚めた人は知っている。
これを「幻のような後得(空性を直覚する瞑想から覚めた智慧)」という。
なので、本当の世俗は、空性を直接悟った後でないと分からない、ともいう。

空性を悟ると、こういうことが待っている。

思い込みの対象と、思い込んでる心自体も「絶対こう!」と感じられるように有るのではないと知るので、強い好き嫌いの気持ちが無くなり、
ものごとに囚われなくなる。

ここでやる気が無くなる人がいるかもしれないが、その人の為に菩提心がある。
ものごとは条件によって常に変化しうる縁起生なので、
皆が幸せになる為に働きかければ、幻の中で、結果は必ず巡りくるのである。

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