本性を考察する

龍樹著『根本中論』第十五章は、「本性を考察する」である。

「本性」「自性」とはややこしい言葉で、訳者によってどのチベット語にどの訳語を当てるか、一致していない場合がある。

筆者は「本性(rang bzhin)」と「自性(ngo bo nyid)」で言葉を変えているが、
これは自性法身(ngo bo nyid sku)の「自性」に合わせた訳にしている。

さて、本章では、前章で「事物が本性として有る理由を否定する」中で、理由その一である会合が実在することを否定し、
理由その二に当たる、「因縁を我がものとすることが、本性として有る」を否定する章である。

ここでは、輪廻に生まれる時に、因(質的原因)縁(副次的な原因・条件)を我がものとして近しく取ることが、本性として有ることを否定する。

対論者の主張は、「因縁から生まれるものごとは、自性がある。正しく認識できるからである。自性がなければ、どうして認識できようか。
存在するものごとは事物であり、事物には自性が有る。」
これを現代風にいえば、「事物は実在する。」になる。

以前にも記したが、対論者である毘婆沙部は、存在するものを全て「事物」であるという。更に、事物は真実として有る(実在する)というので、
時々「実在」と「事物」が同じ意味で使われることがある。

阿闍梨龍樹率いる中観帰謬論証派勢は、
因縁に依拠して起こる「事物」は、因縁に依拠して生じるが故に実在せず、自性が無いという。
自性・本性とは、何にも依拠せず、そのものとして成立しているものだからだ。
更に、自性が無い故に、因縁に依拠して生じることができるという。

この章で、空性の否定対象になる「自性」「本性」とはどういうものであるのかを知ることができる。

空性の否定対象とは、実在視が誤って思い込んでいるものなので、存在しないものである。存在しないので、「これ!」と実際に感知することはできないのだが、「こういうものだ」と、論理的に考えて推測することはできる。
しかしながら、有るのではないものを説明して解らせようとするので、言葉で説明しきれない部分もあるし、同じ言葉でも違う意味に取られることもある。

要するに、言葉で説明しようとしてもなかなか伝わらないので、
相手の思い込んでいる「これが真実だ!」という真実の部分に、
「あなたが言ってる通りに考えていると、これこれこういう矛盾が出ますよ。」と背理を提示することによって『あれ?これで良いのだろうか?』と疑問を生じさせ、
最終的には対論者が真実であると思い込んでいたことを手放させる。
『これだ!』と思っていたことが無かったことを認識させることで、真実(実在)が無かったことを了解させる。

そのような理論構成ではないかと、筆者は推測している。

本章の「本性」で、面白いことが一つある。
「本性(rang bzhin)」は、パツァブの新訳でよく使われている言葉であるが、
実は、旧訳(チョクロ訳)に当たる『ブッダパーリタ』の中では「自性(ngo bo nyid)」と記されていることが多い。
しかも、旧訳で空性の否定対象として使われている「自性(ngo bo nyid)」という言葉は、新訳では全て「本性(rang bzhin)」に変換されている。

一方、旧訳の中で「本性(rang bzhin)」と記されている言葉は、空性の否定対象というよりは、ものごとが本来持ち合わせている性質のような感覚で使われている。

ここから分かるのは、パツァブ翻訳官が新訳改訂を行った時、後の読者が分かり易いように、空性の否定対象を表す言葉を「本性(rang bzhin)」に統一したということだ。

これを頭において、旧訳の『ブッダパーリタ』の第十五章の章名を見てみよう。

「事物と無事物を考察する」である。

面白い・・・・・


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