我が為した・他が為したを考察する

龍樹著『根本中論』第十二章は、「我が為した・他が為したを考察する」である。

日本語として少し変なのであるが、他に美しい言い回しを思いつかなかったので、直訳である。

第十一章で、輪廻があることを理由に挙げて、「輪廻があれば輪廻する者が存在し、その輪廻する者こそが我である」と主張する対論者に対して、
輪廻には始まりと終わりが無いことから、輪廻の実在を否定し、

輪廻の実在を否定したことによって、
対論者の「我が実在する」という主張を否定した。

第十二章では、「我が実在する」という主張のもう一つの理由である、
「苦しみ」の実在を否定する。

ここでの「苦しみ」とは、今生で緊密に関係している五蘊であり、
それは何かといえば、今生でわたし達がもっている心と身体である。
わたし達の心と身体が何故「苦しみ」なのかと言えば、その原因が煩悩と  カルマであり、自分の自由無く受け取るものであるから、と仏教では説明する。

自分の心身と自分自身が本当に存在すると思い込み(実体視:煩悩)、
これらの快い状態に執着し(貪欲:煩悩)、
快さを破壊するものを憎み(怒り:煩悩)、
自分の幸せの為に、動機をもって行動する(業:カルマ)。

意識が身体を離れる時(死ぬ時)、自分自身は身体が無くなったことに動転し、新しい身体を求める。
その時に、カルマの残した潜在エネルギーが発動して、さまざまな現れを意識に見せるが、その現れに翻弄されて、
良さげに見えるところ(生処)に入り込んだり、逃げ込むことによって、
来世の身体を得るという。

原因が煩悩と業(カルマ)の苦しみなので、結果として得るものも苦しみである、
という説明だ。

「この『苦しみ』を、釈尊は『近取(近く取る)の五蘊は、苦しみである。』と説かれた。
釈尊がそうおっしゃったからには、苦しみは有る。
苦しみが有るなら、苦しみの所依(拠所)になっている我は確かに有る(実在する)のだ。」
というのが、対論者の主張である。

以上を論式に当てると、
「我は、本性として有る。(何故ならば)それと関係を持つ苦しみが有る故に。」

この理由として挙げられた「苦しみ」を、
①我が為した:苦しみ自体が苦しみを作った
②他が為した:苦しみとは別本質の何かが苦しみを作った
③我と他の両方が為した:苦しみの自他両方で苦しみを作った
④我でも他でもないものが為した:自他両方でない無因から苦しみが起こった
の四つの面から否定する。

苦しみ自体の上で考察を終えた後、
(前の主張が論破されてしまったので)
「苦しみは、我が為した」という言葉の、別の説明を対論者は挙げる。
「プトガラ(わたし、あなた等)自身が苦しみを為したことを『苦しみは、我が為した』というのだ」と。

その後、自から・他から・自他両方から・自他のどれでもない無因から、
という全ての面から主張を否定していくのは、同様である。

本性では、対論者の主張で、「苦しみ」の拠所として「我」を提示している。

普段我々が考える時は、苦しみの五蘊があって、それに名付けられたものとして「わたし」を考えるので、
「苦しみ」の五蘊が拠所、名付けられた「わたし」が拠るものであるように、自動的に連想してしまう。
なので、筆者自身、対論者の主張を簡単に落とし込むことができなかった。

しかし考えてみれば、対論者は「我」は実在し、輪廻を繰り返す主体であると考えている。
前世から今世を通って、来世に続く者は「我」であるので、
一生しか使えない五蘊は、                      輪廻転生する「我」に拠るものであると考えられるのだろう。

先人達は、自分自身が感じる「わたし」について、かくも深く考察した。
「わたし」は実在しないと説いた釈尊が、
如何にブレークスルーであったかが分かる。


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