行為するもの・行為対象・行為者について説かれた経典

「そこで、声聞聖者は、
眼識の対象である、過去と未来と現在起こったこれらの形色であるものについて、(こう考える。これら形色は)
まさしく恒常か、まさしく堅固安定か、真如か、他ではない真如か、誤りの無い真如は何も無いけれど、
その幻は有る。幻となしたそれは有る。心を蒙昧とするそれは有る。
(幻のように現れた形色に対して)
彼は『どうでもよいものが有る。』と思い、
そのように(五感について)それぞれに考える。」

『仏説大乗流転諸有経』より

「眼が諸々の形色を見ず、意が諸法を知らず、何処かへ世間は入らない。これは、最勝の真実である。
何処かに縁が集まることによって(何かが)見られると、導師が良く示された、その居処を勝義であると捉えることは、思い込みに通じることになる。

眼と形色に依拠して、眼識がここに生じようとも、形色は眼に依拠したのではない。形色は眼に移ったのでもない。
無我であり、美しくないこの法(現象)を、再度、我であり美しいと思い込む。

無に誤った分別をして、それより眼識が起こる。
識が滅し、起こることから、識が尽き、増上すると見られる。
何も行き来は無く、空であり、幻に似ていると、瑜伽行者は見る。」

『優波離請問経』より

「眼とは、一切(の条件)を具えれば見るとなり、眼が諸々の形色を見ることも、夜に諸縁が揃わなければ見るとはならぬ。それ故に、『具有』と『離』とは妄分別である。

眼は現れに依拠して、快い、あるいは不快な様々な形色を見るので、
そのように現れに依拠して見るので、
それ故に、眼はいかなる時も見ることは無い。

快い音声とされるものは、それも、いつ時も内に入ったことは無い。
それが行くことは対象(認識されるもの)として有るのではなく、
分別(概念作用)の力によって、諸々の音声は起こるのだ。

歌や踊りや楽器の音も、捉えられる対象ではない。
夢のようであると知らぬ者にとっては蒙昧と執着の因となる。

全くの思い込みに執する無知な者達は見失い、
煩悩の奴隷である幼き者の如く、私はなっていないか?」

解説は、『正理の海』第3章[了義の経証と合わせる]にて。
〈DECHEN〉にて、11月30日公開予定!


DECHEN
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第3章、11月30日公開予定。
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