帰謬論証派の滅諦(きびゅうろんしょうはのめったい)

帰謬論証派の滅諦(きびゅうろんしょうはのめったい)

直子 デチェン

いきなり呪文のような題名である。

「滅諦は空性であるかどうか?」
というのは、中観帰謬論証派特有の問答である。

滅諦(めったい)という「めでたい」に似た音を持つ、聖なる真実がある。
意味は全く似ておらず、

滅=苦しみが滅した
諦=真実

という、空性を直覚する聖者にとって真実である「無我を修したことによって苦しみが無くなった(滅した)こと」を「滅諦」であると説明されることが多い。

苦しみに中には、「原因の苦しみ」と「結果の苦しみ」がある。
「結果の苦しみ」はもう起こってしまっているので、既に有るものはどうしようもない。
ならば、将来起こるであろう苦しみの原因を無くせば、その結果の苦しみも起こらないので、「原因の苦しみ」を無くそう、というのが仏教の考え方である。
至極理に適っている。

では「原因の苦しみ」は何であるか?
と考えて、不幸せの原因は以前の悪い行い(悪業)であり、
その悪い行い(悪業)を犯してしまった原因は何かといえば、欲望や怒りなどであり、
その欲望や怒りが起こった原因は、良い・悪いと実際の状態より付け足して考える、間違った思い込みであり、
その間違った思い込みの原因は、思い込みが付け足された対象が、自分の心に映ったように確かに存在すると捉える無知の心(実体視)であると知って、

その実体視や欲望や怒りの「原因の苦しみ(煩悩)」が無くなった断滅を、
一般に「滅諦」という。

仏教に様々な哲学派がある中で、殆どの学派(毘婆沙部から中観自立論証派まで)がこう説明するけれど、
中観帰謬論証派の説明はちょっと違う。

ツォンカパ大師の『中観密意解明』という、『入中論』の解説の第五章の終盤で、
「特別な主体においては、法性もただ一方の清浄のみでは不可である。各々の場合の一時的な汚れをも浄化されることがそれぞれ必要であるが、まさしくそれを、滅諦というのである。」
という言葉がある。

『密意解明』というと、ものすごく難しいように感じるが、
チベット語をそのまま題名にすると『お考えをよく明らかにする』ということで、
そんなに難しくない。
『入中論(月称著)』は中観の教えを顕かに説かれたものだけれど(秘密の教えではありません)、ややこしくて理解することが難しいので、何を考えて説かれたのか、そのお考えを明らかにしようという、ツォンカパ大師の愛情あふれる著作である。

その中で、
「まさしくそれを、滅諦という。」
と書かれているので、その直前に説明された言葉が重要になって来る。

中観クラスの学生は、この部分だけでも暗記する。

「特別な主体」とは、空性の拠所になる特別な主体で、「解脱道」である。
直前の無間道(空性を直接悟ることによって煩悩を無くす直の対治になる、瞑想状態の知覚)によって滅諦を得た、依然空性を直接悟っている瞑想状態の知覚である。
空性を直接悟っていることは同じでありながら、無間道と解脱道のどこが違うのかといえば、
無間道はその段階の煩悩を無くす直接の働きをして、
解脱道はその煩悩が無くなった、解脱の一部を得ている、ということである。
無間道は空性のみを悟るし、
解脱道は空性と滅諦を同時に悟っている。
存在するものは全て空性の拠所である主体になるけれど、その中でも「空性を直覚している、実体視が浄化された面をもつ心(知覚)」ということで特化されている。

「法性」とは「空性」である。

「ただ一方の清浄」とは、全てのものに当てはまる空性の否定対象である「実在」のみが欠如する「ただ一方の清浄」である。

「各々の場合の一時的な汚れをも浄化される」とは、空性を直接悟る瞑想にも段階があるが、そのそれぞれの段階で、無くなっていく煩悩(実体視等)にも段階がある。
まず粗い実体視から始まって、だんだん微妙な実体視が無くなっていく。
その時々で浄化されていく煩悩が、「各々の場合の一時的な汚れ」のもとである。

煩悩は、間違った思い込みや、ものごとの適正な在り方に反して起こってくるので、その反対の「適正な状態」を知ることで無くなる。
無くなることがあるし、その時々の状況に従って起こってくるので「一時的」なのである。

「浄化される」とは、汚れから離れることである。

「それぞれ必要である」とは、上記のように解脱道にもそれぞれ段階があるので、それぞれに「空性の拠所に煩悩が無くなったことによって、その空性自体が浄化された部分」が必要であるという意味である。

なので、粗雑に書いてしまうと、
「空性の特別な主体になる解脱道においては、実在の欠如(空性)だけではなく、空性が浄化された部分も必要である。それを滅諦という。」
ということになる。

空性を直接悟る智慧が、その時に瞑想者が得ている滅諦も一緒に悟ることから、
「空性を直接悟っている智慧が、空性以外の現象を悟るか否か?」で、この話題が上がってくるのだが、

空性を直覚している知覚は、空性以外悟らない。
なので「それが滅諦を悟っているならば、滅諦は空性である」という話になってくる。

これについて、お坊さん達は一生懸命問答をするわけであるが、
その概念を説明する先生方も大変である。

ある説明では、
空性を空に例え(否定対象を否定しただけの絶対的否定の例)、
空性が段階をおって明瞭になっていく様を、空の雲が晴れていくことに例えた。

ある先生は、この特別な主体に対して、
「空性も滅諦も空性であるが、
空性は『何において清浄か』。滅諦は『何によって清浄か』。」
と説かれた。

その時は言葉を使うことだけに喜んで、授業が終わってからはしばらく忘れていたことである。

ところが、今になって新しい例を思いついた。

ロックダウン以前の空と、ロックダウン後の空である。

以前も今も、見ている空は同じである。
でも以前は細かいチリで、遠くはぼやけてはっきり見えなかった。見える星の数も少なかった。
ロックダウン後は空気が澄んで、見える星の数が増えた。
デリーからヒマラヤが見えるまでに、空間が浄化されたともいう。

「実在が無い」空性の例と、「それぞれの場合の汚れが無い」滅諦の例を、
身近に表している、ありがたい空である。


DECHEN
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直子 デチェン
1999年初渡印。2003~2015年インド・ダラムサラ仏教論理大学聴講。現在も殆どヒマラヤの麓、ダラムサラで暮らす。 100円投げ銭サポート募集中!インド自炊で一食分・・・二食分?(^人^)ゞ