七転八倒

最近夕方、毎日先生と電話でお話する機会がある。
ロックダウン後、しばらくチベット語での会話の量が減っていた。
言い回しなど忘れかけていた所だったので、会話の練習もかねて、一生懸命しゃべっている。

以前1~2ヶ月帰国して、インドへ帰った時、30分程で忘れていた言葉がバーッと顕在化したことがある。
当時は学校に行っていて、授業の後で問答があった。
一日目の問答で、脳内で言葉が蘇ったことを実感した。
その時はまだ問答をする程になっていなかったが、一緒に聴いているだけで、かかっていた靄が晴れるような感覚を味わった。

どんな言葉でもそうだけれど、しばらくぶりに話すと、何かしら不自然な部分が出てくる。
違う言葉を言ったな、変な音を出したな、と自分で分かる。

大体において、外国人に対するチベット人の先生は気を遣って、間違っていても指摘しないことが多い。
『これだけ話せるんだから良くやった』と優しく受け入れてくれるのか、
『しょうがないから放っておこう』と諦めているのか分からないけれど、
間違っていないか自分で知りたければ、こちらから質問する必要がある。

毎日話すので時々新しいことを話したくなり、説明の言葉を用意するけれど、初めて使う言葉はなかなか自然に話せない。

『あれ?何だっけ?』と思いながら、それでもあきらめずに伝えようとすると、先生も最初は戸惑うが意味が分かれば教えてくれる。
「それは何だ?」
ときかれて先ず答える言葉は、
「私の発音が悪くてきっと分からないんです。これこれこういう時にこうすることです。」と、別の言葉で説明すると、分かる時は分かるし、分からない時は分からない。
七転八倒の恥ずかしさであるが、気にしている暇はない。

次の言葉を探さなければならない。

先日、鳥葬のことを話題にした。
一日目に話したことに関係して、二日目にも話そうとした時、チベット語で鳥の部分しか思い出せなかった。
「鳥・・・・・鳥・・・・・鳥・・・・・人が死んじゃって死体を鳥にあげるの何て言うんでしたっけ・・・」
と言っていたら、先生が
「鳥葬か?」
ときいてくれた。
「そうです!」と言って会話は続いたが、
恥ずかしいと思う暇もなく、次の言葉を考えていた。
練習に次ぐ練習である。

最近、先生は新しいSNSを使えるようになったので、チベット関係の動画を見つけて送るようになった。
ラサのご出身なので、ラサ市内の映像があるものが良いだろうと思い、時々送る。
それ以外にも、山々や大河、草原、僧院など、チベットらしい美しい風景があれば送る。

話は逸れるが、1959年にチベットからインドに亡命した人々は、最初こんなに長期間インドに留まるとは思っていなかったらしい。
特に高齢のお坊さま方がそう言う。
最初は数日したら僧院に帰れると思っていた。だから数日ぶんのツァンパ(麦焦し)しか持ってこなかった。それが数ヶ月になり、数年になり、ついにはこれだけ長い年月インドに留まることになってしまった。
もう60年以上になる。

以前の様子と今の様子は随分違うだろうけれど、きっと故郷の様子をご覧になりたいだろうと思って、動画を探して送る。
そして会話のきっかけにする。

今日は何を話題にしようかと考えていたが、昼にお送りした動画についてが一つ。
明日、9月2日はチベット人にとって民主主義記念日なので、それも一つ。
明日は満月なので、それについても一つ。
明日はチベット風水的に水水(水が合わさって甘露となり、寿命の力が増す)と、
インド時間で午後1時(日本時間午後4時半)から地水(地と水が合って若さとなり、若さでとても幸せになる)になるので、縁起の良い日であることが一つ。
これだけ用意しておけば、何とかなるだろう。

言葉は何かを伝える為に作りだされたツールだ。
使ってなんぼのものである。
七転八倒しても九でまた起き上がりつつ、十分ほどの会話に、今日も臨む。

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