芯とつながる

昔と今とどちらが幸せか?
ときかれれば、筆者は迷わず今だと答える。

子どもの頃は何も考えず、無自覚な幸せだったかもしれないし、十代の頃は独りよがりの幸せだったかもしれない。
十代後半からインドに来るまではチラリチラリと幸せがあったかもしれないが、満足するものではなかった。
(チベタン・ライブラリーの先生は、「自分の国で幸せだったら、こんな所に来ないだろ?」と言っていた。言い得てしかり。)
インドに来てからは幸不幸入り混じっているが、幸せに感じていた時でも、今から考えれば芯が通っていなかった、
というか、芯とつながっていなかった。

例えて言えばマカロニみたいなもので、パスタの部分は厚くて美味しいのだが、中が空洞なのだ。

中は何かといえば、自分自身である。

世間で良いといわれる豊かさは、意味の無いものだと思ってインドにきて、
精神心的な豊かさが価値のあるものだと思い、
心を良くする為の方法を何とか自心に習慣化させようと頑張ったわけであるが、

どうも筆者の場合は、それらを全て外側の価値観でやって来ていたようである。
悪いといわれているから、他人に嫌われるからそれをしないし、
先生方や知人が良いと言っているから、それをやって来たようである。

筆者はエンパスなのか、他人の考えを自分の考えだと錯覚する性があるらしい。

筆者は以前、絵を描くのが好きだった。漫画だけど。
描き始めると、時間を忘れて没頭してしまう。
夜も寝ないで描き続けるので、命を縮めるから描くのを止めようと思い、描かなくなった。
後で考えてみると、画家になりたかった父の影響で絵を描いていたらしいと気付いた。
自分の内側から描いていたのではないと気付いて、描く気が無くなった。
なので、心の底から描きたくて描いている人は凄いと思う。
自分の芯とつながって描いているからだ。

正直にいうと、今現在筆者には「これをやりたい」と具体的にあげられる仕事はない。

「もし100億円あったら何をしたい?」
という質問があり、その答えを書き出してみたが、正直に正直に正直に書いて、
①ラダックへ行ってヘリコプターに乗る。途中で山のてっぺんに降りる。
②アフリカの世界一きれいな水源地に行って、湧水をそのまま飲む。
③カイラス山へ行く。
が上位三位であった。
修行するとか勉強するとか、全然出てこない。

自分はもしかしたらアウトドア系なのかと、不思議に思っている。

今の生活は以前と変わっていないけれど、自分の意志を尊重するようにしている。
すると安心が増えた。
嫌なことを騙し騙しすることが無くなったせいである。
本心とつながり始めた気がする。

ここで難しいのは、無我をどう取り入れるかである。
「私自身/そのもの」が無いということは一応確信しているので、自分のどこまでが「私そのもの」として映り、どれくらいの「私」が世俗として有るのか?
私達の心に「私」が映る時には、本当に「私」があるように映るので、その時点でもう「我(無我の否定対象)」が映っている。
「私」が映らないこと自体経験したことが無いので、「無い」と考えると自動的に何にもない方向へ振り切ってしまう。
ここでどう「私」を置くのか、実体験として認識するのが、とても難しいのである。

「まさしく縁だけのもの」と、日本語で表現するのも難しい。
ただここに、様々な条件で組みあがって「私」として現れているだけのもの。
こう書いてしまうと、芯なんて無いじゃないかという話になる。

それでも、現れている映像の中で、ものごとは働く。
(これは筆者の考えたことではなくて、『入中論(月称著)』六章に書かれている。)

粗い思い込みを外して、自分の本心を見つけて、それに従いつつ、
本心自体、心に映っているだけのものだと心の端っこで知りながら、
制限なく本心の思った通りに行動する。

これができたら、ずっと楽に生きられるだろう。

今筆者は自分の芯を朧気ながら見つけ、つながろうとしている。
これは、無我の拠所になっている主体をはっきりさせることにも役に立つ、と思う。
何だか、遺跡を地中から掘り出してだんだん形をはっきりさせていく作業に似ているが、少しずつ作業は進行中である。

そんなわけで筆者は、今まで生きてきた中で、今が一番幸せだ。

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