2020/08/06 ダライ・ラマ法王。チベット人若者へ向けてのオンライン法話を視聴しての自由考察・其の三

今日も大家さんにお世話になりました。
大家さん、ありがとうございます。

今日はテレビルームに子ども達が出たり入ったり、誰かがドアを閉めたらドアの外でお父さん(中で法話を聴いている)を呼んで泣いてる二歳の女の子がいたり、結構にぎやかであった。
家族で法話を聴くムードを体験した一時間半であった。

法話以外の情報が多かったので、法話内容の情報が流れてしまった感がある。
最近は気を緩めて聴くことに慣れてしまった。
時々隣にいる人と笑いあったり、出てきた言葉について、法話を聴きながら心の隅で考えたりすることは楽しい。
このスタンスで法話を聴くのが、自分には一番合っているのだろう。
もう楽に行こうと思う。

さて法話内容は、視聴された方は皆ご存知であると思うので、気が付いたことを記そうと思う。

一つ残念に思ったのは、質問者の口述した質問内容と、あらかじめ用意された質問内容(左側のスクリーンに書かれていたチベット文字)の順番が前後していたのか、小さな不一致があったことである。
それに法王猊下も少し混乱されていて、補佐の方がサポートされていた。

最後の質問は、バナラシ、サルナートのチベット大学で勉強をされているお坊さんからで、「縁起は、正しい認識主体によってどのように成立されるのか?」というものであった。「縁起を、どう正しく認識するんですか?」みたいな意味である。

『縁起賛』十偈二行目(チベット語)で出てくる、「成立していない」の部分を、法王猊下は一日目に外道(非仏教徒)の見解であると説かれた。

「事物は、真実として成立していない。(何故ならば)縁起である故である。」
という論式を例として立てる。
正しい論式であれば、主語と理由は「事物は、縁起である。」と、意味が正しくつながる筈である。

しかし「成立していない」とは、成立していない理由(不成因(ふじょういん)という)を示す。
「事物は、縁起であると成立していない」ということで、要するに非仏教徒は「事物は、縁起ではない」と言っていることになる。

でも、例えば順世派(輪廻転生や業の因果を否定する学派)であっても、お母さんから子どもが生まれることや、種から芽が出ることは解る。
だったら、原因から結果が起こることは理解している筈なので、どうして「事物は、縁起ではない」と言ってることになるんですか?
という質問であった。

法王猊下はそれに対して長い返答をされていた。
実際の心の働きや、どのようにものごとを認識して、どのような心の状態になるかを知れば、縁起のあり方が理解できるとおっしゃったのだろう。

筆者はその時、実は別のことを考えていて、上の空だった。

もう何年も前になるが、南インドで法話の折、大きな問答会があった。
筆者もギャラリーで拝聴することができたが、その時の返答者に、心に残る返答をされた方がいた。

「外道でも縁起を了解するのではないか?因果を了解する故である。
因果を了解するだろう?種から芽が出ることを承認する故である。
それとも、彼らは種から芽が出ることも解らないのか?
解らんで畑に種をまいてるのか?」
というような質問であった。

それに対する返答は、
「外道は、種から芽が出ることくらい知っているけれど、縁起を了解しているわけではない。」

気になった筆者は、数日後たまたまその返答者にお会いした時、それについてきいてみた。すると、
「確か、セェ ンガワン・タシ(デプン僧院ゴマン学堂のテキストを多く書かれた方)の学説要綱の中で読んだと思う。
外道は、目の前の因果(種から芽がでるとか、お母さんから子どもが生まれるとか)は見て解るけれど、その根本の原因は何かと追究していくと、ものごとを形作る根本原質とか、創造主等の実在に突き当たる(実在は他のものごとに依拠せず、縁起ではなく存在できる)。
全てのものごとについて縁起を認めているわけではないので、縁起の見解を了解しているとは言えない。」
と返答してくれた。

問答時に良く出てくる話題なので、質問者はこのことを言っていたのかなと思う。

今日の質問者も、皆とても真剣な表情で返答を聴いていた。
一生懸命、勉強をしてきた子達なのだろうなぁと思う。
「そうじゃないか?」と法王猊下に質問された返答の代わりに、ちょこっと笑うのが可愛い。

随喜、随喜、随喜である。

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